勝部神社の火祭り, 住吉神社の火祭り, 物部氏
琵琶湖の周辺(40)
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(平成19年1月13月撮影) |
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1月の第2土曜日,滋賀県守山市の勝部神社と住吉神社では恒例の火祭りが行われます。
どちらも大松明を焼き払い,この1年の無病息災を祈願します。
祭りの主体は,フンドシ姿の若衆達です。
この火祭りは,滋賀県の奇祭の一つで,県の無形民族文化財に指定されています。
なお,勝部神社と住吉神社は,どちらも物部氏の祖先神(ニギハヤヒノミコト)を祀っており,物部氏が古代からこの地方に関係のあったことが推測されます。 |
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(1)勝部神社:
大化5年(649年),物部氏一族の物部宿彌広国が祖先を祀るため,物部郷(勝部,千代,蜂屋,野尻,出庭)に創建したことに始まります。(昭和16年まで,この地は栗太郡物部村に属し,物部神社と称していたようです。)
なお本殿は佐々木高頼氏が大願成就祈願のため再建,後に豊臣秀次が修理し,重要文化財となっています。
祭神は以下の3神で,(1)と(2)は物部氏の祖先神とされる神です。
(a)天火明命(あめのほあかりのみこと)<別名:饒速日命>(にぎはやひのみこと):ニニギノミコトの兄
(b)宇摩志麻治命(うましまぢのみこと):天火明命の子
(c)布津主神(ふつぬしのかみ)
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(2)勝部神社の火祭りの由来:
約800年前,第83代土御門(つちみかど)天皇(1199〜1210)のご病気が重く,占師によれば「近江国栗太,野洲両郡の堺に大沼があり,ここに数千年を経た「おろち」がいて,天皇に危害を加えている」とのこと。
さっそく,宮中から「おろち」退治の兵を現地に派遣したが,「おろち」はなかなか姿を現しません。射手一同は,神社に参詣すること50日の祈願をこめたところ,その満願の日,どこからともなく「おろち」が出現。
これを退治し,焼き払ったところ,天皇のご病気は間もなく快癒したそうです。
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全長約5m先端部の直径は約4m,
重量約400kgです。
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材料はハンノキ,竹,縄,菜種殻など。木片は大蛇のうろこを表すそうです。 |
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先端部は,当日朝5時から
採取された菜種殻です。 |
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松明の搬入 |
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写真は,火祭りの様子です。
若衆(15〜34歳)はフンドシ1丁で太鼓をたたいて町内を練り歩いた後,松明をかついで入って来ます。皆,だいぶ御神酒を戴いているようで,威勢がいい。はでなかけ声(ごーよ,ひょーよ)をかけています。
8時半頃,12本の松明を一斉に点火。炎は十数m立ち上がり,夜空をこがし,一瞬火の海と化します。若衆達は,かけ声をかけながら火の周りを乱舞し,約1000人ほどの群衆も火の粉を浴びて,後ずさりします。
火が収まると,群衆は火にあたり,今年1年の無病息災を祈ります。その後,まだ燃え残っている松明を若衆が境内から引き出していきます。。。
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(1)住吉神社:
住吉神社は,天平11年(739年),物部守屋の子孫である物部玉岡宿彌(すくね)道足の創建によります。
また祭神は,物部氏の祖先神である饒速日命(にぎはやひのみこと)と,住吉三神(底筒男命,表筒男命,中筒男命)です。
(2)住吉神社の火祭りの由来:
今から約800年前,土御門天皇がご病気のおり,病の原因が三上山の大ムカデの危害によるとされ,村人らの願いを聞いた藤原秀郷(俵藤太)が3本の弓矢を一度に射て退治し,この時大ムカデの頭が住吉神社に,胴体は勝部神社に,そして尾部は瀬田の唐橋近く(大萱)まで飛んだとされています。
以来,村人たちが大ムカデに見立てた大松明を焼き払って,天皇のご病気平癒を祈ったのが始まりとされています。
この住吉神社では,氏子数十名が,(a)15〜34歳の若衆組,(b)35〜70歳の神事衆,(c)70歳の年長者(1名)で構成され,「平癒」を意味する「へーよ,へーよ」と,かけ声をかけています(勝部神社と少し異なります)。
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6本の大松明が並びます。
(現在5本め)
長さ約6m,重さ約250kgです。
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<再生ボタンを押してください><音声あり> |
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<「へーよ,ヘーよ」と声をかけながら大松明を搬入してきます> |
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大松明に奉火されるまで,
大太鼓がうち鳴らされています。 |
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「仮屋」の中では,かまどで火をおこしています。他の若者は,左手に手松明(ワラで作る),右手に太鼓バイ(タロの木で作る)を持ち,青竹を連打します。 |
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次々と大松明に奉火されます。 |
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「へーよ,へーよ」とかけ声をかけながら火の周りを乱舞します。
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大松明の頭が燃え落ちた時点で,大松明を神社から運び出し,水路に投入,消火します。 |
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物部氏について:
(1)<物部氏の祖先と神武天皇との接点>
物部氏の祖先は,天照大御神(アマテラスオオミノカミ)の子孫の饒速日命(ニギハヤヒノミコト)とされます。
(下の系図参照。)なお邇邇芸命(ニニギノミコト)については,「民話の里 高千穂を訪ねて」にも示しています。
邇邇芸命(ニニギノミコト)が,高天原から日向(宮崎県)の高千穂の峰に降臨し,そのひ孫である神武天皇が大和(ヤマト)に向かって東征して行きますが,実はそれより先に饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が神宝を持ち河内の国に降臨し,隣の大和において,この土地の豪族・長髄彦(ナガスネヒコ)の娘を妻として,一族の長となっていました。
饒速日命(ニギハヤヒノミコト)は,その豪族・長髄彦(ナガスネヒコ)を殺害して,神武天皇に服従を誓い,この時より,神武天皇は大和を支配し,饒速日命(ニギハヤヒノミコト)(=物部氏の祖先)は,天皇家の支配下に入ることになりました。
<日本書紀より>
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(神武)天皇, 素
より
饒速日命
は,
是天
より
降
れりといふことを
聞 しめり。
而
して今果たして
忠効
を立つ。
則
ち
褒
めて
寵 みたまふ。
此物部氏の
遠祖
なり。
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(2)<物部氏のその後>
大和朝廷が起こった4世紀の初め,大和の石上神宮(いそのかみ神宮)を氏神社として祭祀を行っていた物部氏は,天皇家と密接に関係していました。また,当時各地の豪族から集めた神宝は石上神社に収められていましたが,これらの管理を行うとともに,地方豪族と天皇家の祭祀を握っていたとされます。
5世紀になると,物部氏は,大伴氏と並ぶ軍事氏族へと成長拡大し,やがて大和朝廷の大連(おおむらじ)の地位を得ます。
しかし,5世紀末に仏教の導入で蘇我氏と反目した物部宗本家(守屋)は,蘇我馬子によって滅亡させられました。
その後,壬申の乱での活躍が認められた物部麻呂(もののべまろ)は,天武天皇から石上朝臣(いそのかみあそん)の姓を与えられ,物部氏の命脈を保つことが出来たようです。
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<参考文献> |
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1. |
勝部神社略記 |
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2. |
住吉神社資料 (浮気の火祭り:松明祭り) |
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3. |
「もういちど学びたい 古事記と日本書紀」(西東社) |
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4. |
日本書紀(一) 1994,9,14 (株)岩波書店 坂本,家永,井上,大野 |
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