近江の街道
東海道(2)(Bの地域)
石山寺,瀬田唐橋
琵琶湖の周辺(37)<大津〜瀬田の唐橋>
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近江は,古来から東西の地域を結ぶ交通の要衝にあたり,左図のように,五街道に属する東海道と中山道の他にも,数カ所の街道が整備されてきました。
これらの街道やその周辺には,昔からいろんな人々が関わりを持ってきた歴史的な遺跡や文化が多く残っています。
しかし,普段それらに接する機会はほとんど無いというのが現状です。
そこで,一度これらを見て回りたいと思います。ただし短期間では,とても不可能なので,時間をかけて,ゆっくりと行く予定です。
今回は,東海道の大津から瀬田の唐橋までです。 |
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今回の東海道 : |
義仲寺まで来た東海道は,膳所の町へと入ります。膳所は江戸時代には琵琶湖畔にあった膳所城の城下町として発達した町です。街道はジグザグに折れ曲がりながら,瀬田の唐橋(18)に到達します。 |
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(10)は篠津神社,(12)は若宮八幡神社,(13)の辺りは本田神社,膳所焼美術館,記恩寺濾花浅水荘などがあります。
なお,(11)の地域では道路に面した旧家に,昔の町屋の名残(「うだつ」や「ばったんしょうぎ」,格子など)が残っています。
また(14)のあたりは江戸時代に500本以上の松並木があり,「近江八景」の一つ「粟津の晴嵐(せいらん)」と呼ばれた所ですが,今は数本の松が残っているのみです。
(15)には木曽義仲と共に戦い,自害した今井兼平の墓があります。
(16)は鳥居川御霊神社,(17)は石山寺です。
鳥居川御霊神社の地は,壬申の乱で破れた大友皇子が自ら命を絶った所とされています。また,石山寺は,紫式部が源氏物語の構想を練り,「須磨・明石の巻」を書いた所と伝わります。
(18)で,やっと瀬田の唐橋です。
←<緑の道が旧東海道です。>
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Bの地域: |
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(10)は,旧東海道に面した篠津神社で,祭神は「素盞嗚命」(すさのおのみこと)です。
創建は鎌倉〜室町時代と考えられ,境内には樹齢400年といわれるケヤキの木もあります。
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篠津神社 表門
旧膳所城の北大手門から移設されたものです。門は高麗門形式で,屋根は本瓦葺きとなっており,旧膳所城主本田氏の立葵紋が見えます。 |
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(11)のあたりは,旧東海道に面して昔の町屋の名残(うだつ(卯建),ばったんしょうぎ(床几),格子)が残っています。
「うだつがあがる」とは,「出世する」などの意味ですが,この語源の一つに,この延焼防止部分を指しているとする説があります。また,「うだつがあがらない」という言い方もありますが,うだつを上げるには費用がかかることから転じて,「甲斐性がない」という意味になったようです。 |
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(「うだつ(隣家からの類焼防止板)」のある家) |
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(ばったん床几(しょうぎ)と格子のある家) |
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(12)は,旧東海道に面した若宮八幡神社です。
創建は,壬申の乱の3年後(白鳳4年(675年)),天武天皇によります。この神社は度々の合戦により焼失するも復興され,
江戸時代には他の神社と同様に膳所藩の庇護を受けてきました。表門は旧膳所城本丸の犬走り城門を移設したものです。
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若宮八幡神社 表門 |
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(13)のあたりには,膳所焼美術館,本田神社,記恩寺濾花浅水荘(ろかせんすいそう),護国神社(丹保の宮),子授かり地蔵,粟津神社(祭神:大国主命)などがあります。
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(膳所焼;初期の作品) |
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(梅林焼;中期の作品) |
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(膳所焼美術館) |
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膳所焼は膳所藩の御用窯として知られ,茶器が有名でした。江戸時代初期,時の藩主石川忠総が小堀遠州を招いて窯を開いたのが始まりとされています。 |
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(本田神社) |
歴代藩主の本田家を祀ってあり,境内には膳所藩資料館があります。
この地には昔,藩主のご隠居所が在ったことから,今でも「御殿浜」という地名が残っています。
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(記恩寺濾花浅水荘と庭園) |
膳所の出身で,明治から昭和にかけて活躍した画家の山元春挙が晩年を過ごした別荘と庭園です。
庭園は大正時代のもので,当時は琵琶湖が庭園に接しており,対岸の山並みを背景にした風光明媚なものであったようです。 |
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(14)は,現在の晴嵐(せいらん)地区の様子です。この地は近江八景の「粟津晴嵐」として知られた所で,昭和の初めまで,道の両側に松並木が続いていたようです。
(15)は,木曽義仲の愛妻である巴御前の弟で,寿永3年(1184年),源義経・範頼の軍と近江の粟津(現,義仲寺あたり)で戦い討死した木曽義仲の後を追い,自害した今井兼平の墓です。その死は,「刀を口にくわえ,馬から真っ逆様に飛び降り,差し貫いた」とされ,壮絶なものであったようです。享年32歳でした。
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(14) |
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(15) |
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(旧東海道と松並木)
現在は数本の松が残るのみです。 |
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「粟津の晴嵐」
(近江八景) |
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(今井兼平の墓) |
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(16)は,鳥居川御霊神社です。
祭神は天智天皇,伊賀采女宅子(いがのうぬめやかこ)の子である大友皇子(弘文天皇)です。
大友皇子が壬申の乱(672年)に破れ,自ら命を絶った「隠れ山」がこの地といわれ,大友與多王が父の霊を祀るために御霊宮を創建した(白鳳4年,675年)ことに始まります。
現在の建物は江戸時代の一間社流造りで,本殿脇門は膳所城本丸の黒門を移築したものだそうです。
なお,大友皇子の弔い寺は,法伝寺です(Aの地域(2))。
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本殿脇門 |
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(17)は,石山寺です。
由緒書きによれば,石山寺は聖武天皇の勅願により天平勝宝元年良弁(ろうべん)僧正により開基されました。 境内には,「石山寺」の名の元になった大きな天然記念物の珪灰石があります。また,西国巡礼13番の札所です。
良弁は湖西の滋賀里出身で,百済系帰化人の末裔とされています。また,聖武天皇が奈良に東大寺を建立して大仏を鋳造したとき,近江の山々から伐りだされ瀬田川を下った多量の木々が使用された事が分かっていますが,良弁は後に石山寺が建立されることになったこの場所にあった石山院という木材の用役に関する役所の総監であったということです。
本堂は滋賀県下の木造最古のもので,内陣は平安中期,外陣は淀君の補修によるとのこと。本尊観音は秘蔵になっています。
源氏の間は紫式部が源氏物語をの構想を練り,「須磨・明石の巻」を書いた所と伝え,本堂下の御堂には,蓮如上人(れんにょしょうにん)の母が石山観音の化身といわれることから,その形見の蓮如鹿子の小袖を安置している?ようです。
多宝塔は美しい均整美の鎌倉期の建築であり,鐘楼,大門はともに鎌倉初期の建立です。
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東大門 |
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東大門と運慶快慶作仁王像 |
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拾翠苑(じゅうすいえん)内 |
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観音堂 |
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多宝塔 |
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御影堂 |
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石山寺本堂 |
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本堂横にある源氏の間
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紫式部像 |
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<以下の写真はクリックすると拡大します> |
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<以下の写真はクリックすると拡大します> |
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<以下の写真はクリックすると拡大します> |
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「石山寺」由来の珪灰石と多宝塔 |
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多宝塔本尊の大日如来座像 |
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源氏物語絵巻 |
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<源氏物語と紫式部について>
1,000年前の寛弘年間,村上天皇の皇女,選子内親王は,まだ読んだことのない珍しい物語を所望されました。
内親王の叔母にあたる上東門院より命をうけた紫式部は新しい物語の構想を練るため,石山寺に7日間籠もったとされます。
そして誕生したのが源氏物語で,日本が世界に誇る世界最古の長編小説です。
紫式部は,漢学者で歌人としても有名な藤原為時の子として973年頃に誕生し,29歳頃,17歳年上の藤原宣孝(のぶたか)と結婚,一児(賢子)に恵まれたものの3年後に宣孝が死去,この頃から源氏物語の執筆を始めたとされます。
その後,藤原道長の娘で中宮になっている彰子(しょうし)に仕える女房になりましたが,その間にも執筆は続けられ,完成には10年近く要しているようです。そして亡くなったのは40歳頃と考えられています。 |
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土佐光起 画
(江戸時代) |
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紫式部 |
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なお,百人一首には,紫式部の歌として,次の歌が選ばれています。
「めぐり逢ひて 見しやそれとも 分かぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな」(57番)
(何年ぶりかでやっとあなたに逢えました。本当にあなたですか?−あやふやで,はっきり分からないまま,
あなたは雲にかくれる夜半の月のように帰ってしまったんですね。)
ここでは,「逢坂の関」にちなんだ16巻「関屋」の紹介をします。
(背景) 光源氏が17歳のとき,正妻の「葵(あおい)の上」になじめず,人妻である空蝉(うつせみ)との一夜の契りを結んでしまいます。その後,光源氏は空蝉と逢おうとします。しかし,空蝉は,人妻である自分の境遇や身分の違いなどに思い悩み,光源氏の誘いには応じませんでした。その後,彼女は夫の赴任地・常陸へ行き手紙のやりとりもなく時は過ぎていきました(2巻「帚木(ははきぎ)」)。
その2人が偶然引き合うことになったのが逢坂の関です。石山寺へとお詣りに行く光源氏一行と,赴任地から帰京することになった空蝉の一行がこの場所ですれ違ったのです。この時光源氏は29歳。
どちらも大人数なので,大臣である光源氏一行を先に通すため,空蝉の一行は道端に控え,道をゆずります。
光源氏も空蝉も互いを忘れてはいません。しかし,周囲には大勢の家臣がおり,まして空蝉には夫もいます。
源氏物語 16巻「関屋」原文 |
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口語訳 |
九月(ながつき)つごもりなれば,紅葉の色々こきまぜ,霜枯れの草,むらむらをかしう見え渡るに,関屋よりさと崩れ出(い)でたる旅姿どもの,色々の襖(あを)のつきづきしき縫ひ物,括り染めのさまも,さる方にをかしう見ゆ。 |
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『九月の末らしく,色とりどりの紅葉や霜枯れの草むらが趣深く見渡されるそんな秋景色のなかに,関の館(やかた)<=逢坂の関>から光源氏一行の旅姿が,どっとなだれるような勢いで現れた。様々な色合いの狩衣(かりぎぬ)は,刺繍や絞り染めも決まっていて,旅の装いとしてしゃれた感じがする。 |
御車は簾下ろし給ひて,かの昔の小君,今は右衛門の佐なるを召し寄せて,「今日の御関迎へは,え思ひ捨て給はじ」など宣ふ。 |
→ |
光源氏は,車の簾をおろし,昔小君とよんでいた右衛門の佐(すけ)(=空蝉の弟)を呼び寄せ,「今日,逢坂の関まで迎えに来た私の真心を,見捨てないだろうね」と言う。 |
御心のうち,いとあはれにおぼし出づること多かれど,おほぞうにて,かひなし。 |
→ |
心にしみじみと思い出すことが多いけれども,人目が多く,ありきたりの伝言しかできないので,何とも寂しい限りである。 |
女も,人知れず昔のこと忘れねば,取り返してものあはれなり。 |
→ |
空蝉も,あの時が忘れられず,一人しんみりと思い返していた。 |
「行くと来とせきとめがたき涙をや絶えぬ清水と人はみるらむ え知り給はじかし」と思ふに,いとかひなし。 |
→ |
「常陸(ひたち)へ行く時も京に帰る時も,せき止めることのできない私の涙を,絶えず湧き出る清水とあの方は見るのだろうか。
殿(光源氏)には,この気持ちがおわかりにならないであろう」
と思うのも,これまた何とも寂しい限りであった。』 |
以下は,平成19年9月23,25日の石山寺秋月祭の様子です。
秋月祭は,源氏物語の完成から来年で1,000年となるのを記念した「源氏物語千年紀in湖都大津」のプレイベントです。(9月25日は中秋の名月でした)。 |
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<以下の写真はクリックすると拡大します> |
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東大門を入った所から
「月見亭」の所まで,3,000個の
行灯が続いています。 |
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行灯には物語中の和歌に詠まれた
草花約30種の切り絵が貼られて
います。
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大きな珪灰石と多宝塔前の
広場にて。
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<以下の写真はクリックすると拡大します> |
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ライトアップされた多宝塔(23日) |
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25日,多宝塔横で行われた
屋外ライブ |
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25日,「月見亭」と中秋の名月。
雲一つ無い良い空でした。
月見亭は後白河天皇(1127〜
1192)行幸の際に建てられた
玉座で,修繕を重ねながら
現存するものだそうです。
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(18)は,瀬田の唐橋です。
瀬田の唐橋は日本三大名橋の1つに数えられ,「日本の道100選」にも選ばれています。また近江八景の一つ「瀬田の夕照」として取り上げられています。この唐橋は膳所城にも近く,「瀬田の唐橋 唐金擬宝珠(からかねぎぼし) 水に映るは 膳所の城」と古くから歌われてきたようです。
最初に架けられたのは不明とされていますが,日本書紀に登場するようです。おそらく,その名前から渡来人(にゆかりのある人々)によって作られたと想像されます。昭和54年に鉄筋コンクリート製で新しく架けられましたが(全長260m),欄干の擬宝珠は,そのまま取り付けられています。
この橋は,東国から京都に入る際に瀬田川にかかる唯一の橋であったことから,合戦の重要な戦略拠点となってきました。
有名なものは,壬申の乱における大友皇子と大海人皇子との戦い(672年)です。この戦いでは,橋を挟んで両者が対峙しましたが,大海人皇子軍が橋を突破し,大友皇子軍を撃破,大友皇子はこれによって自害したと伝えられています。
また,奈良時代に起こった(平城京最大のクーデターとされる)藤原仲麻呂の乱では,仲麻呂が平城京から(以前に近江国司として赴任していた)近江国府へと逃げる途中で,先回りしていた孝謙上皇軍にこの橋を焼き落とされ,やむなく湖西へと逃れたものの討ち殺されました。
さらに,天正10年(1582年),京都の本能寺で織田信長を討った明智光秀が安土城に向かおうとしてこの橋まで来たとき,瀬田城を守っていた山岡景隆(かげたか)が渡橋を拒み,自ら橋を焼き落としたことが知られています。 |
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<現在の唐橋>
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(前方は近江大橋) |
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(俵藤太のムカデ退治伝説) |
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(橋守神社と雲住寺) |
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(橋守地蔵) |
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瀬田川に住む竜神(大蛇)が爺さんに化けて,藤原秀郷に御上山のムカデ退治を頼んだところ,秀郷は快く引き受け,矢を眉間に命中させ,大ムカデは消え失せました。秀郷は一生食べきれないほどの米俵を土産に竜宮を後にし,これから「俵藤太」の名前が付いた,という伝説です。
住吉神社の火祭りは,俵藤太が大ムカデを退治したことにちなむ伝統的行事です, |
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橋守神社は正しくは「龍王宮秀郷社」といい,御上山のムカデを退治して龍王乙姫と結ばれたといわれる藤原秀郷(俵藤太)を祀っています。また雲住寺は藤原秀郷の子孫が建立したお寺で,遺品とされる太刀や系図などを保存されています。 |
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昭和51年,旧橋の撤去工事中に中央橋脚の基礎の地下から出現した石仏です。室町時代の作で,400年以上も唐橋を守ってきたことになります。現在は橋の方を向いたお堂の中から橋の安全を守っています。 |
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<参考文献> |
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1. |
「<近江歴史街道>近江東海道」,木村・樋爪・八杉・米田著,1996,3,30,サンライズ出版刊 |
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2. |
ビギナーズ・クラシックス「源氏物語」 角川書店編,2001,11,25 初版発行 |
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3. |
「日本の中の朝鮮文化」,金達寿著,1985,3,15,講談社文庫 |
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