直線上に配置

近江の街道
東海道(2) (Aの地域)
琵琶湖の周辺(37)<義仲寺〜瀬田の唐橋>
(平成18年10月22,29日撮影) <音声あり>

 近江は,古来から東西の地域を結ぶ交通の要衝にあたり,左図のように,五街道に属する東海道中山道の他にも,数カ所の街道が整備されてきました。

 これらの街道やその周辺には,昔からいろんな人々が関わりを持ってきた歴史的な遺跡や文化が多く残っています。

しかし,普段それらに接する機会はほとんど無いというのが現状です。

そこで,一度これらを見て回りたいと思います。ただし短期間では,とても不可能なので,時間をかけて,ゆっくりと行く予定です。


今回は,東海道の義仲寺から瀬田の唐橋までです。

今回の東海道 : 義仲寺まで来た東海道は,膳所(ぜぜ)の町へと入ります。膳所は江戸時代には琵琶湖畔にあった膳所城の城下町として発達した町です。街道はジグザグに折れ曲がりながら,瀬田の唐橋(18)に到達します。

ここでは,Aの地域を見ていきます。

(1)
はすでに見た
義仲寺です。

ここから東進して,(2)は天智天皇や大友皇子ゆかりの
法伝寺(ほうでんじ)石坐神社(いわいじんじゃ)です。

さらに(3)は,
響忍寺(こうにんじ)(4)和田神社です。

旧東海道を少し離れると,(5)六体地蔵北向き地蔵があり,(6)には昭和49年にかけられた近江大橋があります。

また,(7)は江戸時代に膳所城本丸のあった場所(現在は膳所城跡公園です。

(8)膳所神社です。

(9)の近辺は膳所藩の武家屋敷跡で,土塀がその面影をとどめています。

←<緑の道が旧東海道です。>
Bの地域へ
 


Aの地域
 
(1)は,東海道(1)で記述した義仲寺です。

 
(2)は,旧東海道に面した法伝寺(ほうでんじ)石坐(いわい)神社です。
(a)法伝寺(ほうでんじ)
 天智3年(664年),天智天皇(626〜671,在位668〜671)により建立された寺です(真宗,仏光寺派)。

672年の
壬申の乱
で叔父の大海人皇子(後の天武天皇)に敗れ,25歳で自害した
大友皇子を,子の與多王(よたおうが住職となり,弔いました。その後は,代々の大友一族によって守られてきたようです。そして現在も大友家がお守りしており,63代めにあたるそうです。

祭壇には,天智天皇と大友皇子の位牌,大友皇子の像,與多王の木像などが祀られていました。奥様の話によると,この寺には「(天皇に背いた“国賊”としての大友皇子を祀っていることを)『言うな,見せるな』という厳しい規律があったようで,長い間世間に伏せられて来たそうです。 公開されたのはつい最近,25年前に1,300年祭を行ってから後だそうです。

(※)(
大友皇子については,NHKの歴史番組その時歴史が動いたで公開されました(平成18年2月8日)。)
<再生ボタンを押してください><音声あり>

(NHK-TV『その時歴史は動いた
 
(2006,2,8放送より引用)

(出演は大友氏大友皇子の掛け軸を前に)
 大友皇子は,我国最初の漢詩作りの元祖ともいわれ,明治になって正式に弘文天皇と追認されました。(根拠は,神武天皇から堀川天皇までの記述がある平安時代末期の「扶桑略記」や,神武天皇から仁明天皇までを記している12世紀成立の「水鏡」に大友皇子が近江朝廷で即位していたと書かれているため。)

       
 (「天智天皇御尊牌奉安 法傳寺」とあります。)  法伝寺通用門
(玄関の表札は,
大友姓でした。)
法伝寺外観  大友皇子
(掛け軸を許可を得て
撮影しました)
 
                     
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    <壬申の乱の真実>
. にっぽん!歴史鑑定 「古代史ミステリー日本書紀の真実 BS -TBS(161) (2019,3,4) 放送)より引用. )
       
    今から1300年以上前の飛鳥時代に,第40代・天武天皇の命によって編纂が始まり,およそ40年もの月日を費やして奈良時代に完成した日本書記には,壬申の乱天武天皇の即位に至った経緯などが書かれています。

@壬申の乱について日本書記に書かれていること(日本書記28巻)      
       
   
       同上より引用

 日本書記では,壬申の乱は,大海人皇子が大友皇子から命を守るためにやむなく起こしたもので,悪いのは大友皇子であるとしています。
 (なお,同書では,天武天皇の年齢だけが記述されていません。これは,故意に出自を隠すための操作と考えられます。)
 
       
     A真実と考えられること           
            同上より引用

学習院大学講師・遠山美都男氏によれば,壬申の乱の本当の理由は,「皇位継承権のない大海人皇子が天皇になりたくて起こした,一方的な皇位の簒奪だった」ようです。 

(注)「簒奪(さんだつ)」とは:本来君主の地位の継承資格が無い者が,君主の地位を奪取すること。あるいは継承資格の優先順位の低い者が,より高い者から君主の地位を奪取すること。 
       

(参考) 大友皇子を祀る鳥居川御霊神社が,Bの地域(16)にあります。
 
(b)石坐神社
(いわいじんじゃ)
  この神社の祭神は,(a)海津見神(わたつみのかみ),(b)天智天皇,(c)大友皇子,(d)伊賀采女・宅子(いがのうぬめ ・やかこ;
  大友皇子の母),(e)豊玉比古命(とよたまひこのみこと),(f)彦坐王命(ひこいますおうのみこと)です。
  大友皇子座像,伊賀采女・宅子座像などが祀られています。
社伝によれば,干害の際,お祈りをしたら願いが叶ったので信仰が厚かったそうです。

(3)は,旧東海道に面した響忍寺(こうにんじ)です。
ここは真宗大谷派のお寺で,表門は堂々とした長屋門(元武家屋敷の門)です。

東海道はこのお寺の前で,直角に曲がります。

(4)は,旧東海道に面した和田神社です。
この神社の創始は白鳳4年(675年)とされ,本殿は鎌倉時代の建築です。
(表門は,江戸時代の膳所藩校遵義堂(じゅんぎどう)の移設です。)
右のイチョウは,高さ25m,幹周は4.5mもの大木で,樹齢は600年以上だそうです。
石田光成が関ヶ原の戦いで敗れ,京都に護送された際に繋がれたとの伝えもあるようです。




(5)は,東海道から少し入った所で,江戸時代からある六体地蔵です。
このお堂は,もともと膳所藩のお碗倉であったとされ(屋根瓦に立葵紋
(たちあおいもん)が有ります。),中には300年以上前からここにあるといわれる六体地蔵が祀られています。お堂の斜め前にある石橋も,膳所城廃城の際に移されたものだそうです。
  (立葵紋) (写真を撮っている時にもおばあさんがお詣りに来ました)

(6)は,現在の近江大橋です。この橋は昭和49年完成,有料でしたが2014年に無料化されました。長さ1290mです。
  右の写真は,近江大橋のそばに咲いている
びわこ草(愛称)の群生の様子です。
近江大橋
下は瀬田川(琵琶湖から流出する
唯一の川)です。
(「びわこ草群生地」という看板がありましたが,実際は植えたもののようです。。。)
(前方は大津プリンスホテルです)
(↑この花は,ヒルザキツキミソウが本当の名前です。琵琶湖大橋のそばには,浜昼顔が群生しています。)

(7)は,膳所(ぜぜ)城跡公です。
膳所城は慶長6年(1601年)関ヶ原の戦いの後,すぐにこの場所に築城されました。
4層の天主郭を有し,琵琶湖に突き出す形で築城され,現在は道路になっている門の前は,お堀になっていたようです。
しかし明治維新後に,廃城となりました。その際,城門が近くのいくつかの神社に分けて移設されました。

琵琶湖側
(公園門の前の道路(湖岸道路)。昔はお堀でした。 江戸時代の膳所城下の再現模型
(現在,紫の線部分に左写真の道路が通り,線より右側が膳所城公園になっています。)
(公園内の様子です。)

(8)は,膳所ぜぜ)神社です。
この神社の祭神は食物をつかさどる豊受比売命で,奈良時代の創建です。
(膳所城から移設された荘厳な門です。
瓦には立葵紋があります。)

(9)は,このあたりに多い武家屋敷の様子です。

今回見た街道筋の花々: きれいな花をたくさん見ることができました。その一部です。

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<参考文献>
1. 「<近江歴史街道>近江東海道」,木村・樋爪・八杉・米田著,1996,3,30,サンライズ出版刊
  
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