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近江に置かれた都: |
文献によれば,近江(滋賀県)には,(実在したかどうか不明なことも含めて)過去に4〜5回,都が置かれています。
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(1) |
高穴穂宮 |
(たかあなほのみや) |
:景行天皇,成務天皇,仲哀天皇 |
(2) |
大津宮 |
(おおつのみや) |
:天智天皇 |
(3) |
紫香楽宮 |
(しがらきのみや) |
:聖武天皇 |
(4) |
禾津頓宮 |
(あわずのとんぐう) |
:聖武天皇行幸時の仮の都 |
(5) |
保良宮 |
(ほらのみや) |
:淳仁天皇 |
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以下では,高穴穂宮と大津宮にちなんだ事項について書いています。
なお,紫香楽宮は甲賀市紫香楽町に,禾津頓宮は大津市膳所(膳所高校近辺)に在ったとされ,また保良宮は,瀬田川西岸の石山国分遺跡(通称「国分台地」近辺)を指しますが,これらについては,別のところで詳述する予定です。 |
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高穴穂宮と渡来人,渡来文化: |
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<現在の地図> |
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古事記や日本書紀によれば,大津市穴太(あのう)町にある高穴穂神社の近くには,12代景行天皇・13代成務天皇・14代仲哀天皇の都とされる「高穴穂宮」があったようです。
これは神話の話なので,実際にこれらの天皇や都が実在したかどうかは不明ですが,「高穴穂」は「穴太(あのう)」の地名を反映したものと考えられています。
また,この地が渡来人の居住地であったことはよく知られていて,穴太衆などと呼ばれていました。近くの日吉大社の門前町である坂本には,「穴太衆積みの石垣」が残っています。
日本には,古くは朝鮮や中国などの渡来人により,稲作技術が伝えられました。その後,5世紀頃からは,石積み,機織り,養蚕,農耕,灌漑,皮革加工,製陶などの高い技術や文化が伝えられました。
彼ら渡来人氏族(大友氏,錦織(にしこおり)氏,穴太氏など)は,湖西(特に錦織から坂本に至る地域)に居住していたことが知られていて,この地には,彼ら渡来人に由来する古墳が,大小あわせると1,000基以上も残されています。
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高穴穂神社と鳥居 |
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高穴穂神社本殿 |
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高穴穂宮跡の石碑 |
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野添古墳群1 |
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野添古墳群2 |
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百穴古墳 |
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6〜7世紀頃の大陸(中国・朝鮮)と日本,大化の改新の背景: |
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6世紀頃には大和朝廷が日本を支配していたと考えられていますが,中国からは遣隋使などにより,また朝鮮からは,百済系(漢(あや)氏など)・新羅系(秦氏など)・高句麗系の渡来人により,大陸の進んだ高い技術や文化を吸収していました。その結果,蘇我氏など一部の渡来系豪族は,朝廷の中で大きな権力を発揮するようになり,朝廷の力はあまり強くなかったといっても過言ではありません。
一方,大陸では,それらの国々同士が抗争(戦争)を繰り返しており,それが日本国内の渡来人にも反映し,日本の古代国家確立の基礎にもなった大化の改新などに影響を与えたと考えられています。
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<歴史的な流れ>(下記年表参照) |
(1) |
645年に中臣鎌足と中大兄皇子は,新羅系渡来人である高向玄理(たかむこのくろまろ)・僧旻(みん)と協力して,蘇我入鹿・蝦夷を倒し,それまでの蘇我氏一族による専制にストップをかけました。
(→これを大化改新,正確には「乙巳の変」(いっしのへん)といいます。)
<注>高向玄理・僧旻は,どちらも元々は百済系の漢人から出ていますが,中国・隋へ留学し,その帰りに,新羅に長期滞在して帰国しており,それが新羅系とされる所以です。 |
↓ |
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(2) |
その後数年して,伝統的に強かった百済系氏族が力を盛り返して来て,百済との連携が強化されます。しかし,朝鮮では百済が新羅から攻められ,日本に救援を求めてきました。 |
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↓ |
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(3) |
そのため,中大兄皇子らは百済の救援を目的として出兵し,唐・新羅連合軍との「白村江での戦い」に挑みますが,大敗を喫してしまいます(663年)。しかし,その帰りには百済から農民2,000余人を引き連れて帰国しました。 |
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↓ |
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(4) |
667年,中大兄皇子は諸般の事情により,飛鳥宮から大津(錦織)に都を移し,668年には天智天皇として即位しました。 |
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<大津宮への遷都の理由> |
(a) |
近江には,すでに4〜5世紀頃から特に百済系の高い技術をもった渡来人が多数来ていたこと, |
(b) |
近江朝廷に,百済の渡来人を優秀な官僚として採用できたこと(鬼室集斯ら), |
(c) |
当時,新羅や唐と敵対関係にあった高句麗との連携が考えられたこと, |
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(琵琶湖から若狭湾・日本海を経由して,高句麗へ行くコースが考えられた) |
(d) |
百済系渡来人(今で言えば財界?)からの強い誘いが有ったと考えられること, |
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↓ |
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(5) |
遷都から5年後(672年),天智天皇の弟とされる大海人皇子と新羅系氏族を中心とした「壬申の乱」が勃発。この戦いに敗れた百済系の天智天皇の子・大友皇子は自害し,大津宮は滅びました。 |
↓ |
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(6) |
673年,勝利した弟・大海人皇子は奈良の飛鳥浄御原で天武天皇として即位しました。 |
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<天武天皇の外交政策> |
(a) |
遣唐使を廃止 |
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(b) |
遣新羅使を10回派遣 (逆には24回も) |
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↓ |
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(7) |
685年,天武天皇の死後,天智天皇の娘であり,皇后の持統天皇になると,新羅との間は急速に冷却し,またもとの百済系氏族中心に戻ります。これを如実に示しているのが,天武天皇の子として次の皇位を継ぐ可能性のあった大津皇子を処刑していることです。 |
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*******************<7世紀の日本と中国・朝鮮>************************ |
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大津宮(大津京)の有ったところ |
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大津宮は,発掘の結果,現在の大津市錦織(にしこおり)1〜2丁目にあったことが知られています。
大津宮は僅か5年数ヶ月という短命であったため,長い間所在地が不明でしたが,昭和49年以降の発掘により,明確になりました。
その結果,天皇がいた内裏部分は南北240m×東西190mの規模であったことが判ってきました。しかし,政治の実務が行われた朝堂院の部分については,住宅が建て込んでいて,発掘がほとんどなされていないのが実情です。
大津京としての施設には,北には穴太廃寺,南志賀町廃寺,北西に崇福寺(当時は「志賀寺」と称していました),南部に園城寺(おんじょうじ)(三井寺)が在ったようです。 |
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(2)南志賀町廃寺遺跡: |
南志賀町廃寺跡は,大津市南志賀1〜2丁目に在ります。発掘調査の結果,ここには壮大な寺院が在ったことが確認されています。この寺院の瓦の文様が2種類在ることが特徴です。 |
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(南滋賀町廃寺跡の石碑)
(前方に琵琶湖が見えます) |
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(出土した瓦の一例)
(蓮華紋方形軒先瓦)
(<サソリ文瓦>) |
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(3)崇福寺跡: |
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枕草子197段に,『寺は壺坂。笠置。法輪。霊山は釈迦仏の御すみかなるが,あはれなるなり。石山。粉河。志賀。』とあります。
このうち,「石山」は「石山寺」,「志賀」は「崇福寺(すうふくじ)」を意味しています。
この「崇福寺」は,中大兄皇子が大津宮に遷都し,天智天皇として即位した際(668年),都の守護のため乾(いぬい,北西)の方向に建立したとされます。ちょうど比叡山のすこし南にあたります。
崇福寺は現在はありませんが,どんな所であったか?比叡山の南方の山中にその痕跡を尋ねました。行ってみると,周囲は森林になっていて,途中までは急坂を車でなんとか登れましたが,最後は徒歩でしか登れず,数十分後ようやくたどり着きました。
崇福寺には,金堂・塔・弥勒堂が在ったということですが,そこには,石碑と建物の土台(敷石)が残るのみでした。
なお,発掘の過程で,塔跡の地下1mの所から,金製・銀製の箱,濃緑色の瑠璃(ガラス)壷や水晶の舎利などが発見されましたが,これらは京都国立博物館に保管されているようです。
崇福寺は,大津京廃都(遷都から5年後)の後も,持統天皇,文武天皇,聖武天皇などから重んじられ,平安時代には十大寺の一つに数えられました。しかし平安時代末期に延暦寺と園城寺(三井寺)の争いに巻き込まれてから衰退の一途をたどり,鎌倉時代には廃寺となってしまったようです。
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(崇福寺への登り道) |
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(崇福寺跡の石碑) |
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(崇福寺の敷石) |
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<参考> |
崇福寺にあったとされる十一面観音が,坂本の盛安寺の観音堂に安置されているので,拝観してきました。(平成19年1月1日) |
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現在は最後方の白い建物に
安置されています。
石垣は,自然石を生かした
穴太衆積みです。
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ヒノキの一木造りで,像高179cm。
製作年代は平安初期,十一面四臂という形式。
杖を持つのは,地蔵さんとの合体思想。 |
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(注)この観音について,井上靖著 「星と祭」では,『観音さまの微笑をふくんでいる顔を仰いでいると自然にこちらも微笑せずにはいられなくなる,そんな感じである。』と紹介されています。 |
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金堂に置いてある寺の沿革によると,「その昔,天智・弘文・天武三帝の勅願により,弘文天皇(大友皇子)の皇子,大友與多王により建立された」となっていますが,元々は大伴氏族がその祖神として新羅神を祀ったもののようであり,それが今日のようになったのは,平安時代に円珍(智証大師)が延暦寺の天台別院として開いてからとされています。
(現在では,園城寺の本尊は弥勒菩薩であり,元々の本尊である新羅神像は,園城寺から離れた所にひっそりと在る「新羅善神堂(しんらぜんじんどう)」に祀られています。)
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(新羅善神堂)
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(仁王門) |
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(同左,春先にて) |
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(にらみを効かす仁王様) |
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(近江八景・三井の晩鐘) |
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日本三銘鐘の一つとされ,環境庁選定の「日本音風景百選」にも選ばれています。 |
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(三重の塔) |
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(三井寺の由来となった井戸) |
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(天智・天武・持統天皇が産湯に使われたという湧水で,「三井寺」の名前の由来にもなっています。) |
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(弁慶の)力餅
参道にある茶店で食べられます。弁慶の力餅です。延暦寺と三井寺が争っていた頃,弁慶が三井寺を襲い,鐘を奪って山へ引き上げたという話しにちなんでいます。小餅を3つ,竹串に刺して密を塗り,きな粉をたっぷりとかけてあります。 |
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<唐崎>
枕草子273段に,『崎は唐崎。みほが崎。』とあります。
このうち,唐崎はこの地であり,またみほが崎は,島根県松江市美保関町の美保崎かとみられます。
当時,大津京に近い港は「唐崎津」で,ここから宮人達は船出したと思われます。
ここは今は唐崎といい,唐崎神社が在り,見事な松と御手洗(みたらし)祭り(7月28・29日)などで知られています。
(「近江八景(唐崎の夜雨)」としても有名です。) |
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さざ波の志賀の辛崎幸(さき)くあれど 大宮人の船 待ちかねつ
<万葉集・柿本人麻呂>(大津京が滅びた後に,しのんで詠んだ歌)
やすみししわご大君の大御船 待ちか恋ふらん 志賀の唐崎
<万葉集・舎人吉年>(百済系渡来人,女性作家)
唐崎の松は扇の要にて こぎ行く船は墨絵なり
<古今集・紀貫之>
さざ浪や志賀の唐崎風さえて 比良の高根にあられふるなり
<新古今集・法性寺入道>
唐崎の松は花より朧(おぼろ)にて
<松尾芭蕉>
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------<唐崎を訪ねました>------
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(唐崎神社)
祭神は,女別當命
(わけすきひめのみこと)です。
また,後方は琵琶湖です。 |
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(唐崎の松)
前に見えるのは,
芭蕉の句碑です。 |
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(御手洗団子)
苦労がないようにと,黒色には塗らないのだそうです。 |
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<蒲生野>(万葉の森) |
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この唐崎の港を出発して,対岸の近江八幡近辺から上陸し山側に行ったところが「蒲生野」(現:東近江市)で,後に百済からの渡来人が多く住んだ所です(神崎郡400人<665年>,蒲生郡700人<669年>(年表参照))。
<<この遊猟の時に由来する「むべ」の話しはこちらです。
また,渡来人が作ったとされる石塔の話はこちらです。>>
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天智天皇らは,668年5月5日に宮廷をあげ,蒲生野(がもうの)に「遊猟(みかり)」をしました。男達は鹿の角をもとめ,女達は薬草狩りをしたとか。言い換えれば,大人の「遠足」です。
有名な以下の歌は,この行事終了後の宴席で,天智天皇を前にして歌われたもののようです。
(←左の概略地図で,蒲生郡・神埼郡は現在,東近江市になっています。)
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<額田王> |
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・『茜(アカネ)さす紫野行き標野(しめの)行き 野守は見ずや君が袖振る』 |
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茜草(あかねそう)の花⇒ |
茜草は,野山に咲く雑草(蔓草)のようでした。2〜3mmの白い小さな花が咲いていましたが,これを乾燥し根を染料として用います。根が赤いので,アカネとよぶようです。 |
(平成23年10月8日,埋蔵文化財センターにて撮影) |
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<大海人皇子(後の天武天皇) > |
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・『紫草(ムラサキ)のにほえる妹を憎くあれば 人妻ゆゑに我恋ひめやも』 |
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紫草(ムラサキ)の花⇒ |
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万葉の森の「あかね むらさき園」で栽培されていました。大きさ5〜6mmの可憐な花です。根は紫根といい,紫色の染料にすると共に,皮膚病の薬として使ったようです。また,かっては全国各地の山野で見ることができる一般的な花でしたが,今では絶滅危惧種に指定されているようです。(現在,東近江市の花に制定されています。) |
(平成23年7月17日この地で撮影) |
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(「にほえる」についての関連事項は,こちらです。) |
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かって額田王と大海人皇子は夫婦で,その娘(十市皇女)は大友皇子に嫁いでいましたが,当時額田王は,天智天皇の奥さんにもなっていました。 蒲生野への薬草刈りの行事の数年後(672年)には,この地は肉親同士の戦い(壬申の乱)の場になりました。
(大友皇子に関する事柄はこちらです。)
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----<蒲生野を訪ねました>------
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(蒲生郡の船岡山にある「万葉の森」) |
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(船岡山から見た蒲生野の様子) |
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(「万葉の森」にあるレリーフ) |
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(額田王と大海人皇子の歌碑) |
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近江神宮 : |
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昭和15年11月に,大津京跡の北部に建立されました。祭神は我が国中興の祖と称えられる第38代天智天皇です。
天智天皇は,日本最初の律令法典として近江令(おうみりょう)を定めたといわれ,670年には「庚午年籍」(こうごねんじゃく)と呼ばれる最初の全国的な戸籍を作り,公地公民を行い,新しい税制を定めるなど天皇中心の律令制中央集権国家の基礎を確立しました。
都に大学,地方に国学を興して国民教育の道を開いたとされています。
また,日本で初めて漏刻(水時計)を作らせ,時報制度を作ったことから,時計の始祖としても知られています。
このことから,境内には漏刻の復元模型があり,時計記念館も有ります。6月10日の「時の記念日」は,近江朝廷に漏刻が設置された日を記念し大正9年に制定されました。 |
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(1の鳥居)
(流鏑馬では,馬がこの参道を,鳥居近くから奥方に走り抜けます。)
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(2の鳥居) |
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(桜門) |
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(外拝殿) |
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(内拝殿) |
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(内拝殿で行われていた結婚式) |
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(漏刻台)<水時計の模型> |
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(火時計) |
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(香時計)(注1, 2) |
天智天皇が大津京に漏刻台(水時計)を設け,広く国民に時を知らせたことが日本書紀に書かれています。
漏刻は中国・朝鮮を経由して伝わったもので,その原理はサイフォンです。 |
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龍の背中に置いた直径3cm・長さ1mの線香の上から,目盛りに従い重りを釣り下げます。線香の火が糸を焼き切ると,重りが下の金属器に落ち,大きな音を発するようになっています。
(中国に伝わるもの)
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線香時計の一種で常(時)香盤ともいい,香炉の灰の中に香をカギ型に埋め,香の燃焼の長さにより時間を計るものです。香は抹香を粉にして使用し,今でも奈良のお水取りの行事には使われているようです。
(大きさ:縦横高さとも22cm)。 |
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(注1)5)香時計(常香盤)には,抹香の他に合歓の木 の葉を乾燥して粉状にしたものも使われたようです。香りが良く,強い上に抹香より安価なので,一般にはこれが使われたようです。また,合歓の木の葉の粉末は脱臭効果もあり,抹茶のように鮮やかなグリーン色をしており,香りも良いので,今でも線香の原料の一部となっているようです。
香時計は水時計や砂時計と異なり香り付きであることから,これを使えば部屋に香りがしみ込み,同時に衣類にもほのかな香りが写るという特徴があります。また,燃焼速度も,線香では一定しないのに対し,香時計では成分が一定で,灰という一種の保温材の中にあるので,はるかに正確(約6cm/時)だそうです。なお,香時計は,比叡山の根本中堂では今も使われています。
(注2)常香盤の使い方の例です。
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近江神宮の流鏑馬 : |
毎年11月3日には,参道で流鏑馬(やぶさめ)の行事が行われます。平成18年での様子です。なお,この行事は,平成2年に,近江神宮50年祭の行事として日本古式弓馬術協会により武田流鎌倉派の流鏑馬が奉納されたことに始まり,この時は第17回目でした。
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(女性騎士も登場) |
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(的は2種類あり,小さい物は9cmです。) |
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凱陣(がいじん)の式
(エイエイオーッと発声します。) |
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(衣装が素晴らしいです。) |
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奉納演武: |
平成19年1月7日,近江神宮で薬丸自顕流(やくまるじげんりゅう)剣術の奉納が行われました。 |
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<再生ボタンを押してください>(音声あり) |
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平成19年1月7日は,全国的に寒波が襲来し,滋賀県でも雪が降りました。
足袋が濡れて冷たそうでしたが,一生懸命演じていた皆さんに好感が持てました。なお,薬丸自顕流は1000年の歴史を持つ由緒ある剣術の流派のようです。本部は鹿児島にあり,滋賀県でも瀬田に道場があるとのこと。 |
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<参考文献> |
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1. |
「近江・大津になぜ都は営まれたのか」−大津宮・紫香楽宮・保良宮−,大津市歴史博物館編,2004,7,20,サンライズ出版刊 |
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2. |
「日本古代史と朝鮮」,金達寿著,1985,9,10,講談社刊 |
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3. |
「日本の中の朝鮮文化(近江・大和)」,金達寿著,1985,3,15,講談社刊 |
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4. |
「唐崎神社」由緒書き |
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5. |
「香りの歳時記」,諸江辰男著,1985,1,24,東洋経済新報社刊 |
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6. |
「枕草子」,清少納言,<角川ソフィア文庫>石田訳注,1980,4,30,角川書店 |
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7. |
「星と祭」,井上靖著,1975,3,10,角川書店刊 <角川文庫> |
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