顔料と染料について
白色顔料,赤色顔料
ベンガラ,漆(うるし)
 
 <粉粒体の部屋(5)-2>
 
 

ここでは,色の元になる顔料と染料について紹介しています。

顔料染料 顔料とは,鉱物などから得た粉体非水溶性の着色剤をいいます。
染料とは,多くは植物などから得た水溶性の着色剤をいいます。

顔料
(1)白色顔料:
(a)鉛白・・・白粉(おしろい)としての利用
 古代において白粉
(おしろい)には,貝殻の粉(胡粉(ごふん))や真珠の粉,米の粉末,鉛白(えんぱく)等が使われていました。このうち,鉛白は粉体の白色顔料,化学式は2PbCO3・Pb(OH)2で,Pb(鉛)を含み有毒です。持統天皇の時初めてこの白粉が作られたようです。

また,三重県多気郡清和村
丹生地区丹生(にう)については下記参照))では水銀(Hg)がとれ(「伊勢水銀」),これを原料に白粉(おしろい)を作っていたようですが,これ(=塩化水銀)も実は有毒でした(鉛白製のおしろいは「京おしろい」,水銀原料のおしろいは「伊勢おしろい」と言われました。)

「京おしろい」(鉛白)はに酢を作用させ,空気中の炭酸ガスを反応させる方式であり,また「伊勢おしろい」では,水銀に赤土・食塩などを混合,水で練ったものを原料とし,これを高温で熱し,蓋についた白い粉を得ていました。

鉛白も伊勢おしろいも明治初期まで使われ,その有毒性のために,亡くなる人もいたようです。

(b)酸化チタン,酸化亜鉛
これらに対し,化粧品用として使われる
酸化チタン粉体酸化亜鉛粉体亜鉛華)は無毒であり,最近では微粒子酸化チタンや微粒子酸化亜鉛がよく使用されています。

 <参考>
 亜鉛華(酸化亜鉛粉体)は,キズ薬としても使われています。この粉体が登場したのは18世紀ですが,工業的に製造されるようになったのは19世紀中頃からのようです。無毒のため,それまでの有毒おしろいに代わり使用されるようになりましたが,顔料としては,現在では酸化チタン粉体の方が広く使われています。
 亜鉛華の物性として,無毒で,「
殺菌作用」のあることが薬として使われる理由と思われます。
  

(2)赤色顔料:
 赤色顔料は,おそらく古代人が最初に意識した色でしょう。太陽燃える火に通じる色であり,昔から宗教的に神聖な色とされ,めでたい色,高貴な色として扱われてきた色です。

 古代の赤色顔料としては,(1)水銀を含む鉱物から作られる「
」,(2)赤鉄鉱や褐鉄鉱の鉄鉱物から作られる「ベンガラ」,(3)鉛を熱して生成する「鉛丹」が代表例です。
 
(a)(水銀朱)
 「
(しゅ)」は神社の鳥居などに着色されている色で,古代からの代表的かつ高級な赤色顔料です。
中国湖南省辰州の地名に由来して「
辰砂(しんしゃ)」・丹砂(たんしゃ)」・「朱砂・「(に)」などと呼ばれています。 製法としては,これらを含有する鉱脈から辰砂を含む鉱石を掘削・粉砕し,水中で比重分離して採取したようです。

日本各地に,辰砂を含む鉱石を産したと思われる「
丹生(にう)」のつく地名が多く存在しています。
(「上丹生」,「下丹生」,「丹生川
」(にゅうかわ),「丹生郡」,「丹生川村」,「丹生神社」・・・など。)
 これらは,(ア)九州,四国から 紀伊半島にかけての「
中央構造線」に沿った地域,および(イ)滋賀・福井から 中部地方(岐阜,長野)を経て埼玉・群馬に至る地域です。

和歌山県には全国で208か所あるという
丹生神社の総本山である丹生都比売(ニウツヒメ)神社があり,空海高野山を開いたのも,高野山近辺が辰砂の産地であったことが大いに影響しています。

また,古代から奈良地方(
大和地方)に古墳(下記の纒向(まきむく)遺跡も含まれます)や都(飛鳥など)が多くあった理由の一つとして,隣接地域にこの辰砂の鉱脈のあったことが挙げられています。 

参考倭国や邪馬台国についての記述のある『
魏志倭人伝』では,「其山有丹(その山では辰砂が取れる)」との記述があります。

」の化学成分はHgS硫化第2水銀天然のものヒ素Asを含有)で,水銀(Hg)ヒ素有毒です。
しかし,この有害な顔料は,
仙薬(不老長寿の秘薬(「丹薬」,「仙丹」))として,あるいは丸薬の赤い衣として,王族・貴族など一部の人々の間で服用されてきました。
 (平清盛などは,この
仙薬を服用しすぎて病気になったようです。また,歴史を遡ると,すでに弥生時代に大陸からこの丹を求めて大和地方を目指した集団(→いわゆる「除福」一行)があったなどとする説もあります。)

辰砂の鉱石

学名:Cinnabar/Native Mercury
和名:辰砂/自然水銀
産地:Almaden,Ciudad Real,Spain



  **********水銀(Hg)の特性と利用********

水銀
(Hg)の融点は-39℃(室温では液体),沸点は357℃,水に不溶,金(Au)・銀(Ag)・銅(Cu)などの金属と溶け合い,合金(アマルガム)を作ります。

水銀(Hg)は天然には単体で存在することは少なく,硫黄(S)との化合物である硫化第2水銀(HgS)として存在します。これが
辰砂で,これを粉砕・加熱し,発生する水銀蒸気を冷却すれば(例えば水中に導けば),水銀が得られます(→蒸留法)。

この水銀は,多くは奈良時代に大仏への
金メッキに利用されました。
これは,加熱状態の水銀に金(Au)を溶かし込み合金(
アマルガム)を作り,これを銅などの仏像にかけた後,沸点(357℃)以上に木炭などで加熱して水銀を飛ばす方法です。

奈良東大寺の大仏には,金が約9ton,水銀が約50ton(すべて「伊勢水銀」)が使われたそうです(金と水銀の比率は1:5〜1:6)。しかし,多数の水銀中毒患者の出たことが,結果として平城京から平安京へと遷都するきっかけになりました。

(b)ベンガラ
 「ベンガラ」は
弁柄,紅殻,紅柄とも書き,その名称は,インドのベンガルに由来しています。
(a)
赤鉄鉱(Fe2O3,酸化第2鉄,ヘマタイト)を粉砕して得たものと,(b)褐色〜黄色の褐鉄鉱を(Fe2O3・nH2O,水酸化第2鉄,リモナイト)を焼いて酸化・発色させ,粉体にしたものがあります。また,鉄丹とも言い,色は通常,赤茶色ですが(写真参照),)製造条件により黄味から黒味まであるようです。

ベンガラ(粒度数μmの微粒子です)

 
 
ベンガラは,紀元前5,000〜6,000年前の縄文時代から土器や埴輪,建造物等の彩色として,また極めて貴重であった「」の代用品として用いられてきました。しかし,これらの顔料としての利用以外に,悪例や邪気を避けるための呪術的利用として顔に塗ったり,格子(ベンガラ格子)に塗布したようです。また,代赭(たいしゃ)」はベンガラの薬名で,このような鉱物系の薬物を「金石玉丹」といい,などと共に仙薬(不老長寿の薬)とされ,また「阿加都知(あかつち)」「ベンガラニツチ(弁柄丹土)」とも言われていたようです。
 最近では
フェライト用原料としての需用も多くなっています。

(c)鉛丹
 
オレンジ系の赤色顔料で光明丹とも呼ばれ,その主成分はPb3O4(四酸化三鉛)です。
鉛が高温で酸化されると一酸化鉛(PbO)となり,これが更に高温で酸化されてできます。

鉛丹の鉱石
学名:Minium
和名:鉛丹
産地:Tsumeb Mine,Tsumeb,Namibia
鉛丹

 『
魏志倭人伝』には,卑弥呼が魏の皇帝から鏡や真珠と共に鉛丹を授かったと記されており,この粉体が日本で作られるようになったのは,室町時代以降と考えられています。
(注,真珠については,「真朱」の間違いとして,辰砂を粉砕した赤色粉末では?という意見が有ります)

木材の腐食や防虫目的で,
も多くの神社の楼門や鳥居に塗られており,京都八坂神社などの例があります。また,奈良興福寺阿修羅像には鉛丹が塗られ,更にも上塗りされていることが明らかになっています。
なお,正倉院には大量の鉛丹が保存されているようです。
 

(3)使った弥生人アジア最古例/盾に顔料 (読売新聞 2008,9,4より引用)

  
鳥取市青谷町の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡跡で出土した弥生時代後期(1〜3世紀)の木製の盾片が,緑色の顔料緑土」で彩色されていたことが分かり,鳥取県埋蔵文化財センターが3日,発表した。
弥生遺物から
が確認されたのは,同遺跡の別の盾品に次いで2例め。鑑定した成瀬正和・宮内庁正倉院事務所保存課長は「東アジアで最古の使用例で,赤と黒に限られるとされてきた弥生の彩色文化のイメージを一新する」としている。

盾片は縦約40cm,横約10cmで,1998年に溝から出土。表側が緑と赤(ベンガラ),裏側がで部分的に塗られていた。緑土は鉄などを含む鉱物の粉末顔料。これまで東アジアでは北朝鮮の徳興里古墳(408年)の壁画が最古とされていた。

 青谷上寺地遺跡では,98年に出土した別の盾片(縦約90cm,横約10cm)でも
緑土が確認されてされている。また,赤一色や,赤と黒で彩色された盾片が計16点出土。古代の戦争や武具に詳しい松木武彦・岡山大准教授(考古学)は,「戦いと色には密接なつながりがあり,集落内の集団を色分けしていた可能性がある」と話している。



(4)(うるし)顔料赤色顔料としてのベンガラや朱の利用
 
漆は従来,
照葉樹林文化の1構成要素として中国大陸から日本列島に伝えられたと考えられていましたが,最近になってそれ以前となる9,000年前のものが発見され,「世界で最も古い漆製品」として紹介されています。

 漆文化の成立には,ウルシノキの集約的管理が必要とされますが,縄文時代にすでにその技術が確立されていたと考えられています。ウルシノキから採取したままの漆液は水分が多く(20〜30%,「生漆」),これを天日や弱い熱でゆっくりとクロメルことにより,水分量を3%ほどに減らし,塗料としたようです。このクロメ漆
ベンガラを混和し,赤色漆が作られました。

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2017,8,8追記***********
1962年に発見された
福井県鳥浜貝塚から,赤の顔料を混ぜた漆を塗った土器や漆の木(破片)が出土しました。この漆の木(破片、1984年出土品)を2012年に再調査したところ,12,600年前の漆の木と判明しました。これこそ世界最古の漆であり,このころから縄文人は漆に親しんでいたことが分かります。

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『日曜美術館/漆ジャパン 12000年の物語』
(NHK 2017,8,6)から引用


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(a)9,000年前の垣ノ島B遺跡(北海道)の漆製品
  この遺跡の特徴は,(1)日本で最も古い漆資料,(2)
赤色漆を使いこなしている,(3)編組的素材と漆技術が合体している,ことであるとされています。
 ここでの赤色漆には,「
パイプ状ベンガラ」が使用されています。これは外形が1μm強の中空パイプ状をしたベンガラ粒子で「沼鉄」とよばれ,鉄分の多い沼地に茂る植物の根に吸い寄せられた鉄分がバクテリアなどの作用によって,その根を核に周りに堆積した褐鉄鉱の一種と考えられています。これは比較的低温(800〜1,000℃)で焼けば,簡単に赤色顔料として使えるものが得られたようです。




 9,000年前の赤色漆
 (文献No.6から引用)

(b)
6,800年前の夫手(それて)遺跡(島根県)の漆液容器
  クロメ漆には良質な
ベンガラが付着していたことが確認されています 。

<参考>1
  高松塚古墳で発見(1972年3月)された「飛鳥美人」の鮮やかな色彩には,皆が驚きました。
漆喰壁の上には白色顔料が塗布されており,鉛白と考えられています。
また,
,帯,裳の赤い縞は,分析の結果,いずれも(HgS)と判明しています。

(製作時期:7世紀末〜8世紀初)
<高松塚古墳 女子群像>

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<参考>2
  
キトラ古墳/の木棺 (読売新聞 2008,5,16より引用)
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(朱色の木棺片)
5.2cm×8.8cm
(復元想像図)

 
奈良県明日香村のキトラ古墳で,被葬者を納めた木棺の内外側が,ともに朱色に塗られていた可能性が高いことが,奈良文化財研究所などの調査でわかった。飛鳥時代,朱塗りの棺は,天武・持統両天皇の合葬(同村)以外に例が無く,被葬された人物の格の高さを伺わせる。

 <解説>
 
キトラ古墳(奈良県明日香村)の棺は,
鮮やかな朱色で彩られていたことがわかった。天武天皇の皇子や高位の貴族,渡来系氏族などの説がある被葬者を知る手がかりになりそうだ。

  2004年に行った石室の発掘で大量に出土した木片や塗膜片を奈良文化財研究所が調査。従来は内側だけが
朱色だったとみられていたが,棺の外側に取り付けたとみられる飾り金具の周辺の破片や,棺の縁付近の塗膜片などにも朱色が残っていたため,木棺は内と外側が朱色だったと判断した。表面が黒い木片や塗膜片もあり,同研究所は「木棺とは別に,棺を載せる黒漆塗りの台があった可能性が高い」」とみている。

  
は古代から被葬者を邪悪なものから守る色として,木棺や石棺に塗られた。天武・持統天皇の合葬陵にあった天武天皇のものとみられる棺は,布と漆を交互に重ねた「夾紵棺(きょうちょかん)」といわれる最高級品で,表面が朱色だったとされる。

  猪熊兼勝・京都橘大名誉教授は,キトラ古墳の被葬者は,壬申の乱で活躍し,天武天皇を助けた高市皇子
(たけちのみこ)(654?〜696)の可能性が高いとする。「天皇と区別するため,夾紵棺よりランクが低い木棺を使ったが,を塗ることで皇太子に匹敵する扱いをしたのだろう」と話す。

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<参考>3
  大王眠るの石室 (読売新聞 2009,10,23より引用)
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(全面がに塗られている桜井茶臼山古墳の石室内と中央に横たわる木棺)

 初期大和政権の大王級の墓とされる奈良県桜井市の前方後円墳・桜井茶臼山古墳(3世紀末〜4世紀初め,全長200m)について,県立橿原考古学研究所が60年ぶりに石室を調査し,魔よけなどのために鮮やかな
朱色に塗られた内部を22日,公開した。朱色の原料は主に,「辰砂」と呼ばれる水銀朱で,少なくとも200kg使われたと推定され,類例のないほど多量という。は壁面として積み上げられた石や,天井石の全面に塗られていたほか,一部残っていた木棺にも塗られていたと見られる。古くから貴重な色とされ,魔よけや防腐剤として用いられており,被葬者を手厚く埋葬いていたことがうかがわれる。

辰巳和弘・同志社大教授は「
水銀朱は中国の神仙思想で不老不死の最高の仙薬とされており,石室にその思想が受け継がれている」と指摘している。」

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<参考>4
 
天平の極彩色 1200年ぶり開花/ 唐招提寺・金堂扉 金具下に文様 
  
(読売新聞 2006,8,25より引用)
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 解体修理中の奈良市の唐招提寺・金堂(国宝の正面扉から,8世紀後半の創建当初のものとみられる極彩色の花の文様が鮮やかに残されているのが見つかり,奈良県教委が24日,発表した。当時,扉の全面に花などを図案化した2種類の文様が交互に描かれていたことも判明。古代建築で扉の外側に彩色文様が描かれた例はなく,1200年以上前のきらびやかな天平建築を知る成果として注目される。

 5組10枚ある扉板(高さ4.4m,幅1.1〜1.4m)の補修に合わせて調査。東端と西端の計3枚の金具の下から,赤や緑,黒などの文様が見つかった。最大横20cm,縦12cmで,外気にさらされなかったために,色彩がほぼ「保たれている。色の濃淡をつける彩色技法が用いられ,
ベンガラ(赤),緑青(緑),鉛丹(橙)などの顔料が使われたとみられる。 唐招提寺は中国僧・鑑真が759年に創建。2000年から解体修理が行われ,09年完成の予定。

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<参考>5
 
壮麗伽藍/白土,赤色顔料の壁土出土 (読売新聞 2006,10,19より引用)
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ベンガラとみられる赤色顔料(左)と白土が付着した壁土

 
大阪府柏原市の国史跡・田辺廃寺(7世紀末)の金堂跡から,白土や柱のベンガラとみられる赤色顔料が付着した壁土が市教委の調査で出土した。東塔跡でも赤色顔料のついた瓦片が見つかり,同廃寺が白壁に朱塗りの柱の壮麗な伽藍だったことが明らかになった。 

 
金堂跡と東塔跡で昨年12月盗掘が発覚。被害状況の調査のため市教委が発掘した。その後,遺物を整理中,白土がついている壁土約50点が見つかり,うち1点(4cm四方,暑さ2cm)に縦1cm,横2cmにわたって赤色顔料が付着していた。壁画の可能性もあったが,筆の跡がなく,わずかに湾曲していることから,塗りの円柱に接していた部分で,柱の朱が転写されたと判断した。また,東塔跡では軒先を飾る軒平瓦など瓦の破片5点に朱がついており,東塔の軒先などの部分も朱塗りだったことがわかった。

 田辺廃寺は渡来系の田辺 史
(ふひと)氏の氏寺とされ,東西に塔が並ぶ薬師寺式の伽藍配置が確認されている。
森郁夫・手塚山大教授(考古学)の話:「有力な渡来系氏族が最新の技術と知識を駆使して,都に負けない立派な寺院を造営したことがわかる」 

 
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<参考>6 : 
 
古墳考 2008 (1) <「前方後円」の起源は“壷”か>(読売新聞 2008,1,29(夕刊)より引用
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・・・これに対し,近年注目されている「壷型」説は,その形から当時の思想を積極的に探ろうとする試みだ。過去の同説とは異なり,ここでいう壷は,不老長寿の仙人がが住む蓬莱山の形を模したものであるという理解だ。古代中国の神仙思想では,東の海に浮かぶ蓬莱山は壷の形をしていると想像されていた。つまり,古墳時代の権力者は墓を壷形にすることによって,不老長寿を願ったというのである。

それは墳形だけでなく,副葬される銅鏡など,前方後円墳を構成する様々な要素に
神仙思想がうかがわれるからだ。 辰巳教授は,奈良県の唐古・鍵遺跡で2,000年に発見された勾玉(まがたま)を納めた褐鉄鉱の殻が,不老長寿の仙薬とされる古代中国の「禹餘粮(うよりょう)」にあたることを明らかにした。
神仙思想は弥生時代からすでに日本へ伝わっていたのだ。  

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<参考>7 : 
にほう
匂う)」の語源
 にほふ」の「」は,「」であり,
赤色を表しています。また,「」は「」であり,際だつことを意味しています。つまり,「におう(匂う)」とは,「赤色に輝くように色づくこと」が本来の意味であり,転じて「女性が美しく目立つ」という意味にも使われたようです(⇒以下3首めの天武天皇の歌参照)。

 
「見渡せば 春日の野辺に 霞立ち 咲きにほえるは 桜花かも」(万葉集)

 
「青よし 奈良の都は 咲く花のにほふがごとく 今盛りなり」(万葉集)
  (注)「青丹よし」は,奈良にかかる枕ことばです。

 
紫草(ムラサキ)のにほえる妹を憎くあれば 人妻ゆゑに我恋ひめやも (天武天皇)(万葉集)
    →<額田王とのやりとりは,こちらです。>
 

染料
(a)
 化粧品としての
は,中国の唐の時代に,植物の紅花(ベニバナ)から採取する技術が伝えられたと考えられています。ベニバナは末摘花とも呼ばれ,赤色色素と黄色色素が含まれており,染料や着色料として使われる以外に,口紅,頬紅として使われてきました。(平安時代になってやっと赤色のみを取り出せるようになりました。)
ベニバナは,現在は山形県で主に栽培されているようです。

<参考>1
 
纒向(まきむく)遺跡・大量のベニバナ花粉,卑弥呼の贈り物染めた?
   <最古のベニバナ花粉,邪馬台国映す「」>
(読売新聞 2007,10,03より引用
  ----------------------------------------------------------
 
 
邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向遺跡で,弥生後期〜古墳時代初め(3世紀中頃)の溝跡から採取した土に,これまでの発見例を300年さかのぼる最古のベニバナ花粉が大量に含まれているのがわかり,市教委が2日,発表した。

 ベニバナは花の
赤い色素染料となり,中国から伝わったとされる。「魏志倭人伝」邪馬台国には,女王・卑弥呼が魏に赤と青の織物を献上したとの記述もあり,邪馬台国に直接繋がる一級の資料になる。

纒向遺跡の土壌から採取された
最古の
ベニバナ花粉
画像は読売新聞 2007,10,03より引用

 『
女王・卑弥呼の時代を彩った「」が鮮やかに甦った。奈良県桜井市の纒向遺跡(3世紀中頃)で大量に見つかったベニバナの花粉。魏志倭人伝には,卑弥呼が鬼道という呪術を操り,民衆を導いたとの記述がある。243年に中国・魏に献上したという赤と青の絹織物「絳青謙(こうせいけん)」。ベニバナが使われた可能性がある衣装を卑弥呼自身が実際に身にまとったかもしれない。ベニバナで作った紅で口や目元を化粧した可能性もある。

 石上七鞘・東京女学館大教授(民俗学)は「
は晴れの舞台に使う特別な色。魔よけにもなり,普通の人ではないということを誇示するシンボル。卑弥呼が祭りごとに使うことは充分考えられる」と語る。

 また,ベニバナは万葉集で「
末摘花」,「くれなゐ」の名で29首が詠まれ,上野誠・奈良大教授(万葉文化論)は「華やかだが色あせしやすく,若い愛人の例えに使われた。邪馬台国の時代に,すでに万葉びとの細やかな機微を感じていたとしたら,すてきな話だ」と思いをはせる。

   ---------------------
(注)邪馬台国のあった地域については,九州説と畿内説などがあり,現時点ではどこであったかの結論は得られていません。

<参考>
<粉体としての花粉:杉花粉とヒノキ花粉についてはこちらに記述しています。>


(注)上記は,以下の文献を参考にしました。
1 「くすり歳時記」,槇佐知子著,ちくま文庫刊,2000,2,9 発行
2 「日本の古代医術−光源氏が医者にかかるとき−」,槇佐知子著,文芸春秋刊,1999,7,20 発行
3 「飛鳥の謎」,邦光史郎著,詳伝社黄金文庫,1991,10,20発行
4 「ことばの由来」,堀井令以知著,岩波新書刊,2005,3,18発行
5 「香りへの招待」,梅田達也著,研成社刊,1979,9,10発行
6 季刊「考古学」,第95号,(株)雄山閣発行,2006,5,1発行
7 「大和誕生と水銀」,田中八郎著,彩流社,2004,3,31発行

                                

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