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小野妹子や小野篁(たかむら),小野道風(とうふう),小野小町などで有名な小野氏一族の関係する小野神社で1,200年来伝承しているというしとぎ祭りを見てきました。
しとぎとは,前年の神田で作られた餅米を前日より水に浸しておき,生のまま木臼でつき固め,ワラの筒に納めたものです。
場所は滋賀県大津市の「小野」です。
小野神社は歴史的に古く由緒ある神社であるというだけでなく,日本で最初に餅をつき,栗や餅,蜂蜜を使ってお菓子をつくったという米餅搗大使主命(たがねつきのおおおみのみこと)を祀っています。そのため米餅搗大使主命は,お菓子や餅の神様と呼ばれています。
しとぎ祭りは,毎年11月2日と決められています。
これに先立ち,10月中旬には,全国菓子業組合の皆さんによる盛大なお祭りがあるようです。これは次回に拝見したいと思います。
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小野神社と小野篁(たかむら)神社 |
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↑餅祖人
小野神社 |
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正面:小野篁神社 |
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左:小野神社
右;小野篁神社 |
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左:小野神社
右:小野篁神社 |
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(1)小野神社
小野神社は,第5代孝昭天皇の第一皇子,天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)とその7世の孫,米餅搗大使主命(たがねつきのおおおみのみこと)を祭神としています。 米餅搗大使主命は,応神天皇の頃に日本で最初に餅をついた「餅作りの始祖」といわれ,現在では“お菓子の神様”として信仰を集めています。
また,この神社は,小野妹子・小野篁・小野道風などを生んだ古代の名族・小野氏の氏神社となっています。推古天皇の代に小野妹子が先祖を祀って創建したようです。また,平安時代,小野篁(802〜852)の時に同族が小野神社に集まって氏神を祀ったことが「続日本後紀」に載っているようです。
(そもそも小野氏は湖西を本拠地とする和邇(わに)氏を祖先としています。和邇氏は安曇(あずみ)氏などと共に,古代において朝鮮半島と北九州を往来していた海人族であり,朝鮮半島から近江などへ文化・技術を伝えることに貢献したと考えられています。特に,韓国語で「ワニ」は鉄を意味することから,製鉄集団であったとする説が有力です。)
小野神社は平安時代の『延喜式神明帳』(延喜式の9巻・10巻で,全国の神社一覧表が記されている)に,「小野神社2座,名神大」とあり,著名な神社だったようです。
「名神大」とは,名神(みょうじん,神々の中で特に古来より霊験が著しいとされる神に対する称号)を祀る大社(=官幣大社)の意であり,当時近江の国には以下の8社がありました。
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滋賀郡 |
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小野神社2座,日吉大社 |
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栗太郡 |
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建部大社,佐久奈度神社 |
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甲賀郡 |
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川田神社 |
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野洲郡 |
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御上神社,兵主大社 |
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蒲生郡 |
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奧津島神社 |
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伊香郡 |
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伊香具神社 |
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高島郡 |
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水尾神社2座 |
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現在の建物は,江戸時代に再建されたもののようです。
(2)小野篁神社
小野篁神社は小野神社の境内にあり,小野篁を祀っています。
建築時期は室町時代前期の暦応年間(1338〜42)と考えられ,国の重要文化財になっています。
小野篁は,平安時代初期(802〜852)の漢学者,歌人として知られます。遣唐副使に任命されるも,1回目は暴風雨で失敗,2回目は拒否して壱岐島に左遷されました。しかし復帰して参議(太政官)まで昇進しました。
百人一首に,以下の歌があります(11番)。
承知6年 正月 (篁38歳)「京なる人につかはしける」
『わたの原 八十島かけて 漕ぎいでぬと 人には告げよ 海人(あま)の吊船 』
<意味>
大海原に壱岐島に流されたが,私は晴天自白であり,漁師の釣り船の如く悠然として,
身も心も達者であることを都の人々に伝えよ。
小野小町の答歌
承知6年 正月 (小町15歳)「おきの みやこでしま」
『おきをいて みをやくよりも わびしきは みやこでしまの わかれなりけり』
<意味>
燠火で(壱岐と燠の掛詞)身を焼くように悲しく,わびしく,心細く,不安であるのは都と島の別れです。
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小野神社での神事
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氏子さん達により,しとぎやお米・酒が奉納され,
一連の神事が執り行われました。
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当日朝早くに作られた36本のしとぎが奉納されていました。 |
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3箇所で,しとぎを勧請縄のように12本づつ吊り下げ,氏子の皆さんがお参りします(宮司さんは,この場所のみ)。 |
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次の場所へ移動中。 |
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最後の場所です。
私もしとぎを2本頂きました。 |
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小野氏の系図 |
小野氏系図は,小野神社看板によれば以下のようになっています。
小野氏一族は,菓子業の発展に寄与しただけでなく,華道をはじめ,我が国の文化・芸能に大きな功績を残しました。
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小野道風(とうふう)神社 |
小野道風神社は,小野神社から500mほど南の飛び地にありました。
祭神に小野道風を祀っています。
現在の本殿は,篁神社と比べると若干小さいものの,同時期に造られたようです。
国の重要文化財になっています。
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小野道風は,平安時代中期の書家で小野篁の孫にあたり,藤原佐里,藤原行成と共に日本三大文筆・三跡の一人として,文筆の神として崇められています。
柳に飛びつくカエルを見て発憤努力し,文筆の極地に達したとあります。
また小野道風は,お菓子の体系を創造したことにより匠守の称号を得,菓子業の功労者に匠や司の称号を授与していました。菓子業に匠や司の免許を授与することは,現在では途絶えていますが,老舗の屋号に匠や司を使用することは,その名残として残っています。 |
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小野妹子神社
小野妹子神社は,小野道風神社より更に300mほど南の小高い唐臼山古墳の上にありました。くずれていますが妹子の墓という場所の前に,比較的新しく,昭和の時代に建てられたようです。
小野妹子は,西暦607年,推古天皇の時期に遣隋使として聖徳太子の国書を持って中国に渡りました。それには,「日出づる国の天子 日没する国の天子に書をいたす」と記されていたのは有名です。妹子は,大国隋との対等の外交交渉を切り拓き,その後の我が国の発展に大きな力を示しました。今も神社には,外交官や駐在員の参拝が多いようです。
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また妹子は華道を創設しましたが,その伝統は華道家元「池の坊」により,免許の授与が受け継がれています。 |
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小野小町
小野小町は平安時代前期の女流歌人で,小野篁の娘とも孫ともされますが,詳しいことは不明のようです。
小野篁が壱岐島から召還された承和9年(842年)17歳で宮中に入り,文徳天皇の更衣であったとする説があるようです。当時の上流歌人と親交があり,上級女官として長年宮中に仕えたとされます。
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彼女の歌は後の紫式部ら王朝女流文学の草分けとなりました。 |
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『花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせしまに』
(大津市にある月心寺には小野小町の像を安置した「百歳堂」があります。) |
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<参考文献> |
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1 |
「菓子・餅の祖神 小野神社 (小野神社発行 パンフレット)
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