(1)金平糖
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製造元 :京都の金平糖製造専門店であるR社です。
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製造方法 :大きいお盆(平鍋)のようなものを傾けた状態で回転させておき,核となる小粒子に,グラニュー糖を溶かした[蜜]を繰り返しかけ,粒子を回転させながら粒を大きくしていきます(下図と動画参照)。この方法は,専門的には「転動造粒」といい,粉体工学の一分野です。
<以下,造粒便覧より>
[1] 下がけ(はじめの丸形の造粒工程)
下がけの蜜は糖度30度で品温45℃とします。タライのような(直径2m,深さ50cm)やや深い鍋型の容器を45°に傾けた状態で回転(1回転80秒)させておき,ここに核となる粒子(R社ではイラ粉という餅米を細かく(0.5mm)砕いたものを使用しているとのこと)を入れます。これに,上記の蜜をかけて1〜2日がかりで丸形を作ります。
[2] 角がけ(つのがけ)
下がけで適当な大きさになったら,蜜は糖度40度にし,50℃に加温します。また平鍋を30°に傾斜させ回転します。そうすると部分的に速く乾燥する所が生じ,盛り高となり,そこにまた蜜がついて,角が出てきます。角が出てきたら傾斜をさらに25〜22°に下げ,糖度も30度,品温45℃に下げます。
R社では,パンフレットによると8日めでイガ(角)が出揃うそうです。
[3] 仕上げ
低温(25〜27℃)で通風乾燥します。
R社では,完成までに16〜20日かかるそうです。なお,職人さんは,皿の上を流れ落ちる金平糖の音で蜜をかけるタイミングを計っており,集中力が必要なので,作業を見学することは不可とのこと。
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(c) |
歴史:金平糖はポルトガル語の「コンフェイト」が語源で,約450年前にポルトガルの宣教師が織田信長に布教を願って献上したのが日本での最初の登場だそうです。当時はとても珍しく,貴重な品とされ,製造方法はいっさい秘密でした。日本で金平糖が作られるようになったのは,長崎→京都→江戸へと広まり,それ以降です。
(R社は,創業弘化4年(1847年)だそうです。)
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(d) |
種類:R社では,チョコレート,ブランデー,梅酒,日本酒,トマト等の味の金平糖をはじめ,珍しい金平糖を多く作っています。 |
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(2)『明治アーモンドチョコレート』 2020年お菓子総選挙2位
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明治アーモンドチョコレート |
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紙が入っています |
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一粒一粒に艶があります |
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(3)変わり玉
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@直径:φ16mm
A色:赤,オレンジ,黄色,緑,白(5色)
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変わり玉は金平糖と同様に,転動造粒法で作られ,嘗めていると違った色が楽しめる昔ながらのお菓子です。
異なる色の蜜を何層にもかけながら,大きくしていきます(下図参照)。
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変わり玉の断面を観察しました。何層もの違う色からなっています。 |
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赤色玉 |
緑色玉↓ |
黄色玉↓ |
オレンジ色玉 |
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(4)みたらし団子:みたらし団子は明らかに,転動造粒法です。
(A)滋賀県草津市穴村「吉田玉栄堂」さんのみたらし団子
このみたらし団子は,江戸時代頃から作られているようで,形に特徴があります。
竹製の扇形の串10本に,団子50個が刺してあります。
各1本には直径約1cmの大きめの団子1個と,それから少し離れた所に,直径7〜8mmの小さな団子4個の計5個が刺してあり,それが10本で計50個です。(5個の団子はそれぞれ5体を表し,離れている大きいものは頭を意味するとか。)
タレは,甘さを抑えた醤油味です。
もともと,このお団子やさんの前には,古くから鍼灸院(今は,「あなむら診療所」という所)が在ったようです。このお灸は,モグサから採った液をつぼにつけるだけで熱くないため,子供を連れて多くの人が訪れたそうです。そしてそこに来た親子連れがこのお団子を買ったようです。
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50個(串全体)が¥300円でした
(平成19年10月)。 |
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包装紙 |
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包装紙(片側) |
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(B)(京都)下鴨神社横にある「加茂みたらし茶屋」さんのみたらし団子 |
(5)その他のお菓子の例
(a) 以下のお菓子は,滋賀県大津市神領「辻末製菓舗」さんの「たにし飴」です。
瀬田の唐橋の近くで売られているお菓子で,ニッキ味です。
昔ながらの,手作り飴(転動造粒品)のようです。
原材料は,砂糖・黒糖・水飴・ケシの実・香料で,タニシが入っているわけではありません。
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(b) 以下のお菓子も基本的に,「丸めて作るお菓子」(転動造粒品)です。
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「四季の花」
(φ14mm×25mmL) |
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「雀の玉子」
(φ15mm×18mmL) |
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「五色豆」(京菓子) |
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「マーブルチョコレート」
(φ15mm×8mmt) |
(c) 以下の飴は,いわゆる「金太郎飴」を切ったもの((イ),(ロ))およびそれを丸めたもの(ハ)です。
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「金太郎飴」は,巻きずしのように,長手方向に色の異なる飴を多数巻き込んで作ります。
長手方向のどこの位置でも,断面形状が同じという特徴があります。
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(イ)「フラワーミックス」
(直径φ12mm×7mmL) |
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(ロ)名前:なし
直径φ20mm×7mmL |
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(ハ)「手まり玉」
(直径φ12mm) |
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(d) 以下のお菓子は「干菓子(ひがし)」で,「和三盆糖」という砂糖を型に入れ固めたものです。
「和三盆糖」は,200年以上前から徳島・香川で作られている,さとうきびを原料にした砂糖(粉体)のことで,「研ぎ」とよばれる作業と「押し」と呼ばれる作業を5日間ほど繰り返し,最後にふるいにかけた後,乾燥し,完成するようです。
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「干菓子」の例(1)
口に含むとじわーと熔けて甘さが広がる上品な味だと思います。
着色は,食用色素の赤色3号・106号,青色1号,黄色4号などでなされています。 |
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「干菓子」の例(2)
加賀藩御用菓子司「森八」の干菓子
(1625年創業)
<原材料>
白:和三盆糖(国内製造),もち米粉,水飴
赤:和三盆糖(国内製造),もち米粉,水飴,
紅花赤色素,澱粉 |
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(e) |
和菓子: |
和菓子は,茶道と共に発展してきました。千利休の時代には,亭主自らが手作りする素朴なものでした。
茶会が広く知られるようになったのは天正15年(1587年)に豊臣秀吉が催した北野茶会で,武士はもちろん公家も招かれ,大盛況であったようです。
さらに,江戸時代になると,文化サロンが形成され,身分や階級を越えて,公家,僧侶,武家,上層町人が集まる茶会が開かれました。特に元禄文化の京都では,源氏物語や古今集を素材にした芸術が語られ,光琳派に代表されるような王朝趣味が復興しました。
茶会の隆盛に伴い,茶席菓子も変わっていきました。菓子屋にあつらえるようになり,京都では滑らかな求肥や細工物の羊羹が工夫されました。見て美しく,食べて美味しい菓子は,たちまち人々を魅了していきました。その後,江戸時代になり,和菓子の技術や造形の美しさが,ほぼ完成しました。
原材料は,白餡・餅粉・砂糖・水飴・卵白などで,必要により色素(赤,黄,青の3種類)で着色されます。
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(6)お菓子の起源と発展 |
お菓子の発展には,小野氏一族が寄与しています。
滋賀県大津市小野にある小野神社の祭神である米餅搗大使主命(たがねつきのおおおみのみこと)は,我が国で最初に餅の起源となる”しとぎ”やお菓子のもとを作ったとされています。
また,小野道風は,お菓子の体系を創造したことにより匠守の称号を得,菓子業の功労者に匠や司の称号を授与していました。菓子業に匠や司の免許を授与することは,現在では途絶えていますが,老舗の屋号に匠や司を使用することは,その名残として残っています。
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<参考文献> |
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1 |
造粒便覧,日本粉体工業協会編,1975,5,30 発行 |
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2 |
「人と土地と歴史を尋ねる「和菓子」」,中島久枝著,柴田書店,2001,3,3発行 |
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3 |
小野神社パンフレット |
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