近江の弥生遺跡
伊勢遺跡,下之郷遺跡,服部遺跡
(琵琶湖の周辺(69))
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縄文時代,琵琶湖周辺の温暖な湖南や湖東地域では,多数の人々が生活していたと想像されており,例えば相谷熊原遺跡(あいだにくまはらいせき)(東近江市永源寺町)では約13,000年前の国内最古級の土偶が見つかったり,粟津湖底遺跡(大津市)からはシジミやフナなどの湖魚の骨や栗の実などが見つかっています。
弥生時代になると,湖南〜湖東地域で稲作の始まったことが知られており,その一つに服部遺跡(弥生時代前期)があります。
さらに中期〜後期にかけての遺跡としては,下之郷,ニノ畦・横枕遺跡(中期)や伊勢,下長遺跡(後期)などがあります。これらはいずれも,三上山の北西部に位置する野洲川下流域の肥沃な地域に集中しています。
特に下之郷遺跡や伊勢遺跡は,他県の著名な弥生時代遺跡(吉野ヶ里遺跡や池上・曽根遺跡,唐古・鍵遺跡など)と同様に環濠や大型建物などを有し,この時代特有の遺跡であることが分かってきました。
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また三上山近くの大岩山山麓からは,国内最大となる銅鐸をはじめ24個もの銅鐸が出土しており,当時この地域では国内有数の一大勢力を形成していたことが考えられます。 『邪馬台国近江説』もあり,伊勢遺跡において卑弥呼の共立の儀式が執り行われたのではないかとの推測もされています。
(卑弥呼が住んだという邪馬台国について,近畿説の纏向遺跡についても記述しています。) |
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服部遺跡(弥生時代前期・紀元前3世紀〜紀元8世紀)
ここは,野洲川流域の遺跡のうち,最下流に位置する遺跡で,縄文時代後期から奈良(平安)時代にかけての複合遺跡です。
地表下2.5〜3mの位置に,弥生時代前期の水田跡や用水路が20,000m2も拡がっていたようです。
また,弥生時代中期には,約360基の方形周溝墓群の築造されたことが報告されています。
奈良時代には堀立柱建物や条理溝が作られ,出土異物には和同開珎等や墨書土器,木簡,銅製印などがあります。
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水田跡4) |
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服部遺跡から見つかった土器 |
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方形周溝墓群4) |
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下之郷遺跡(弥生時代中期,紀元前1世紀〜紀元前2世紀; 2,100から2,200年前)<平成14年国指定史跡>
下之郷遺跡は東西670m,南北460mで,広さは25haもあります。
服部遺跡の南側にあり,人口も増加した「ムラ」の形態を備えていました。
周囲にはムラを防衛する環濠を有し,中央部の方形区画(東西約75m,南北約100m)では,大型の掘立柱建物なども見つかっています。(下之郷史跡公園では,環濠の一部を保存しています。)
下之郷の当時の人々は,フナやコメを食べていました(稲作と漁労)。発見された稲モミは,DNA鑑定の結果,水田に適応した「温帯ジャポニカ」と水田にも焼畑にも適合した「熱帯ジャポニカ」の2種類と確認されました。このうち,温帯型は朝鮮半島から由来したのに対し,熱帯型は東南アジアから直接日本に渡ったとみられ,当時のコメの伝播ルートが複数あったことを説明する貴重な資料となっています。
この遺跡からは,生活や稲作に利用する織物用の部品や各種の木製品だけでなく,石や銅製の武器(鏃,斧,剣)が出土しています。また,武具(木製の盾)なども見つかっています。このことから,環濠は,水田用や生活用水の確保以上に「ムラ」を防御するために必要だったことも考えられ,この時期が戦乱の時代であったと推定されています。
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下之郷遺跡全体図4) |
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発掘の様子(3重の環濠) |
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現在の様子 |
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保存されている環濠 |
このような遺跡で非常に良く似ているのは(環濠や武具など,また時代的にも),九州(佐賀県)の吉野ヶ里遺跡です。
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<吉野ヶ里遺跡の様子>
再生ボタンを押してください>
『10minボックス 日本史』
(2013,12,20 NHK-Eテレ)より引用 |
<参考>この遺跡から“最古のメロン”が見されています。
『最古のメロン −滋賀・下之郷遺跡 2100年前の果肉−』 (読売新聞 2007,6,1より引用)
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『弥生時代の環濠(かんごう)集落跡,滋賀県守山市の下之郷遺跡で,約2,100年前のメロンの一種の果肉が出土し,同市教委が31日,発表した(写真,同市教委提供)。種子が見つかることはあるが,果肉は腐ってしまうため,専門家は「現存する世界最古のメロンの果肉と見られ,当時の豊かな食生活がうかがえる」としている。』
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2,100年前のメロン(ウリ)の果肉
(守山市教委提供) |
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『果肉の一部(長さ約10cm)は,マクワウリかシロウリとみられ,環濠跡の土中(深さ約1m)から見つかった。表面は濃い茶色に変色していたが,水分を多く含んだ土が空気を遮断し,果肉が残ったとみられる。
総合地球環境学研究所(京都市)でDNA分析し,メロンと塩基配列が同じことが判明。放射性炭素年代測定で時期も特定できた。
メロンはアフリカ原産で,中東からインドなどを経て日本に伝わったとされる。これまで最古の果肉は,中国で発掘された4世紀頃のものとされていた。
加藤鎌司 ・岡山大教授(植物育種学)の話:「弥生時代にメロンが栽培されていたことを実証し,学術的に大きな意義を持つ」』
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二ノ畦・横枕遺跡(弥生時代中期〜後期)
ここは下之郷遺跡の南東部に,下之郷遺跡の衰退する頃に出現した遺跡です。
南北500m・東西450mの,野洲川を挟んで守山市から野洲市に拡がる広さがあり,周囲には1〜2条の環濠も発見されました。
集落内部には80棟以上の竪穴住居をはじめ直径15mを越える大型円形住居も確認されています。
特徴的なのは,下之郷遺跡でみられた多量の石器は少なくなり,鉄製品(鉄製のヤジリなど)が発見されていることで,
鉄製武器が下之郷の「ムラ」を滅ぼした可能性もあるのではないかと想像されます。
野洲川流域でも,この頃から急速に鉄器が流通し始めたようです。
(注)古代近江の鉄系集団としては,湖西の和邇(わに)氏,湖北の息長(おきなが)氏が知られていますが,この湖南地方をまとめていたのは,青銅文化の安(やす)氏であったとの記述もあります。
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伊勢遺跡(弥生時代後期,紀元1世紀末〜2世紀末)<平成24年国指定史跡> |
伊勢遺跡は南北400m・東西700m,広さ30haにおよぶ大型宗教都市遺跡と考えられています。
この時期になると「ムラ」から「クニ」の形態をなしていたと考えられます。
13基の大型建物群が直径220mの円周上に18m間隔で中央を向いて整然と並び,その中心近くには2重の柵と方形区画に囲まれ,正確に東西南北を向いて建てられた大型建物(「楼観」)および2棟の連立式独立棟柱建物のあったことが明らかになっています。
特徴的なのは,この棟持柱を持つ建物の構造が,伊勢神宮本殿の神明造りとよばれる建物形式と同じであることです。また,この遺跡は,伊勢神宮と同じ“伊勢”という名称をもつこと,古事記や日本書紀で,伊勢神宮が大和(注)を出て近江をなどを経て今の伊勢市に移されたと書かれていることなどから,伊勢神宮と密接な関係があると考えられています。
(注)
大和(奈良)の纏向遺跡では,独立棟持柱建物が見つかっています。
この時期には近江の土器が東海,近畿(下記唐古・鍵遺跡について 参照),北陸や九州北部へと拡がっており,遺跡は卑弥呼が女王になる前,倭が30あまりの「国」に別れていた頃の中心地の一つと考えられています。また,最近では,それを発展させた「邪馬台国近江説(文献2),3))」も出ています。
なお,「魏志倭人伝」によれば,卑弥呼やその居処について,次の記述が見られます。(b)については,条件を満たしているかも・・・?
(a)「婢千人を以て自らせしめ,男子一人有りて飲食を給し,辞を伝えて出入りす。」
(b)「居る処の居室・ 楼観・城柵,おごそかに設け,常に人有りて,兵を持して守衛す。」
(注)邪馬台国のあった地域については,九州説と畿内説などがあり,現時点ではどこであったかの結論は得られていません。
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現在,伊勢遺跡の発掘地は埋め戻されて田んぼになっていますが,その発掘も完全ではなく,しかも遺跡内の田畑が徐々に市街地化しつつあり,弥生時代の重要な遺跡が取り返しのつかない状態になる可能性もあります。早急な用地確保と保全が必要と思われます。
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伊勢遺跡看板(前方は三上山) |
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伊勢遺跡看板 |
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建物群発見位置を示す目印の竹組 |
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伊勢遺跡パンフレット(大型建物) |
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伊勢遺跡の範囲と発見された建物群の位置関係 |
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田中照男さん*復元模型(1/30)
(独立棟持柱を有する大型建物)
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田中照男さん復元模型(楼観)
(1/30) |
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楼観を中心として,13基の建物が直径220mの円周上に18m間隔で並ぶ様子と,方形区画に2棟連立式の祭壇が建っていた様子の再現です。 |
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↑建物外部の2本の他に,建物中央部にも1本ある棟持柱が,伊勢神宮や出雲大社の「心の御柱」に相当するとし,また建物が2棟連なって発見されたことから,建物を祭殿とみなす考え方です。
*守山市伊勢町在住
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国内最大の銅鐸<国指定重要文化財>
伊勢遺跡から東に8km離れた三上山近くの大岩山山麓から,明治14年と昭和37年に計24基もの銅鐸が発見されました。そのうちの1つは国内最大(高さ134.7cm)です。銅鐸が埋められた時期は弥生時代の終わり頃と推定され,種類の異なる2種類の銅鐸(西日本に分布する近畿式銅鐸と東海地方に分布する三遠式銅鐸)が一緒に埋められていました。このことから,伊勢遺跡が東西を結ぶ重要地点であったと考えられています。
これらは国の重要文化財として,国立博物館(東京)に保管されていましたが,平成25年10月〜11月に野洲市銅鐸博物館に一時里帰りしたので観てきました。
このように多数で最大の銅鐸の存在,あるいは大型の伊勢遺跡などの存在は,同様に多数の銅鐸や金属製武器が発見された出雲地方や大型建物の発見された九州・奈良などの地域と共に,野洲川を中心とする湖南地域が,弥生時代に国内有数の一大勢力を形成していたことを示す重要な証拠といえそうです。 |
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展示状況 |
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<<伊勢遺跡は女王卑弥呼の共立の場だった?!>>
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<再生ボタンを押してください>
『歴史秘話ヒストリア』
(2019,2,06,NHK-TV)より引用
(この銅鐸の存在意義と伊勢遺跡の関係について)
大岩山で見つかった銅鐸は,近畿の銅鐸と東海の銅鐸の合体した特徴を有しており,このことは,この地での政治勢力の一大結集を意味しているようです。
また,場所や年代的背景から,伊勢遺跡において,卑弥呼を共立した儀式が執り行われたのではないかという推測もされています。 |
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(参考)
唐古・鍵遺跡について
上記の遺跡を見た直後(12月8日)に,奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡と同ミュージアムを見学する機会がありました。
唐古・鍵遺跡は,下之郷遺跡や伊勢遺跡と同時期の弥生時代を代表する遺跡として知られています。
時期は縄文時代後期から古墳時代前期までと長きにわたっています。
遺跡は,幅5〜10mの大溝がムラを囲む多重環濠集落で,広さは約30haとされています。
発掘された直径80cmの柱根は,弥生時代の遺跡中で最大級とされています。
土器に描かれた絵から,大型建物が復元されていました。
北部九州をはじめ,吉備や東海,近江の土器などが発見されており,当時すでに広域的な流通網のあったことがわかります。
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復元建物 |
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柱根 |
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弥生土器(壷)の変遷 |
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近江の土器 |
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壷の流通経路 |
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<参考文献> |
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1 |
「大型建物から見えてくるもの」−弥生時代のまつりと社会−,安土城考古博物館発行,2009.4.25 |
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2 |
「邪馬台国 近江説」:後藤聡一著,サンライズ出版発行,2010.2.11
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3 |
「邪馬台国 近江説」:澤井良介著,幻冬舎ルネッサンス発行,2010.1.10
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4 |
守山市教育委員会文化財保護課発行パンフレット |
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