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食品関係の粉粒体(2) |
(1日に1〜2時間しか咲きません) |
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<粉粒体の部屋(4-2)> |
ここでは食品関係の粉粒体のうち,
「米(稲)の起源」を紹介しています。 |
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稲の花と実りのしくみ
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稲の花を観察することができました。
(2018年7月,場所:滋賀県草津市)
稲は滋賀県産“みずかがみ”です。
稲の花は午前11時ごろの約1時間,気温30℃以上の晴れた日に咲くとされています。
殻が割れて,おしべが出てきています。めしべは根元にある枝分かれした綿のようなものです。
おしべ先端の房が割れて落ちてきた花粉がめしべに付き受粉すると,さらにその下の部分が成長して2か月ほどで「米」になります。 |
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『ミクロワールド
(稲の花と実りのしくみ)』
(NHK Eテレ<2016,08,23>より引用) |
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世界3大穀物といわれる「小麦」,「米」,「とうもろこし」のうち,日本人にとって,米は主食であり,非常に重要なものです。しかし,もともと「米」または「イネ(稲)」は日本列島には無く,縄文時代から弥生時代にかけて大陸から伝来したものと考えられています。最近,米(稲)の起源のかなり古いことが分かってきました。
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米(稲)の分類と歴史 : |
(1) |
分類 :米は,イネ科イネ属の一年草です。
米には,大別するとジャポニカ種(温帯型,熱帯型)とインディカ種があり,ジャポ二カ種(オリザ・サティバ・ジャポニカ;0riza・sativa・japonica)は日本から朝鮮半島および東南アジアで食べられており,粘りけ(もちもち感)があります。
これに対し,インディカ種はインド〜東南アジア〜中国で食べられており,どちらかというとパサパサ感があるものです。また,長さに違いがあり,インディカ種がジャポニカ種より長細いことは良く知られていると思います。 インドネシアでは,両者の中間的な種類であるジャパニカ種が食べられていたり,ラオスでは年中,餅米を食べている所もあるようです。 (⇒モチ米の由来は<以下>にあります。)
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(2) |
生産 :米の生産が多いのはやはりアジアで,特に中国・インドが多く,日本は最近生産量が減少しています。 |
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(3) |
歴史 :米(稲作)の起源が考古学者を中心に,研究の関心のまとになっています。また,日本での米の栽培がいつかということも関心のまとになっています。
(A)最近の考古学研究の成果では,稲作の起源は,中国最古の文明が発見された長江(揚子江)流域とされています。それまで中国で最古の文明と考えられていた黄河流域の「黄河文明」より早い時代に,揚子江沿いに在った「長江文明」を発見したのは,国際日本文化研究センター教授の安田喜憲氏らでした(1996年)(1)。この長江文明は,畑作中心の黄河文明に対し,稲作中心で,ジャポニカ種が栽培されていました。
(B)安田喜憲教授によれば,『今のところ,稲作の起源は,少なくとも8,600年前までは,確実に遡れる。もし,土器にある圧痕が稲作の証拠とすれば,少なくとも11,000年位前までは確実に遡れます。玉蟾岩(ぎょくせんがん)遺跡や仙人洞遺跡では14,000年前まで遡れる可能性が指摘されているという段階です。』(2)とのことです。
(C)そんな中,中国の共同通信は,2005年1月22日,以下のニュースを伝えました。
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『1万年前のもみ殻発見 中国,最古の栽培稲か』
【北京22日共同】『中国の国営通信,新華社は22日,中国の長江(揚子江)下流の新石器時代の上山遺跡(浙江省浦江)から,約1万年前の世界最古の栽培稲のもみ殻が見つかった,と伝えた。新華社電によると,これまで最古の栽培稲は長江中流の遺跡などで見つかった8,000年前のものとされており,稲作の起源はさらに約2000年さかのぼることになる。
同省の考古学研究所などが調査した結果,上山遺跡で約1万年前の土器とともに大量の稲のもみ殻が出土。もみ殻を調べたところ,野生種より長さが短く,幅は逆に太い栽培稲の特徴が確認できたという。
専門家は今回の結果について「長江下流が稲作の発祥地の一つであることを裏付けた」との見方を示した。』 |
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(D)日本での稲作の開始について
以下は,独断と偏見で作成した日本の縄文時代の年表です。
******年表.縄文時代の日本と世界の動き******
(a)地球の気候と縄文時代の稲作
氷河期が終わった14,000年前〜15,000年前頃から地球規模で急激に温暖化が始まり,縄文文化が出現しました。この頃から日本には,ブナやナラの落葉広葉樹の森が広がり,我が日本人の祖先である縄文人も定住して,狩猟・漁労生活をするようになりました。
ところが,12,800年前頃に,「ヤンガ−・ドリアス」と呼ばれる「寒の戻り」があり,日本以外の他の地域(ヨーロッパや西アジア)では,食料を確保するため,農耕を開始しました ( 注,この時期に「小麦」の栽培が始まったと考えられています)。
しかし,日本の場合は,この寒冷化(「ヤンガー・ドリアス」)は,農耕への移行につながりませんでした。その理由は,当時日本列島にはすでにブナやナラなど落葉広葉樹の森が広がりつつあり,食料が森や川から得られやすかったこと,イネ科の草木が生育する広大な草原が無かった,もしくは稲の野生種が無かったことなどが理由と考えられています。
「ヤンガー・ドリアス」の寒冷化が終了した後の数千年は,むしろ現代よりも温暖な気候となり,列島全体が森で覆われました。中でも東北地方では「三内丸山」の人々がクリ(栗)などを大量栽培し,人口増をささえていました。
⇒(どんぐりからどんぐり粉体,ドングリクッキー作成の挑戦記を,粉粒体の部屋(8)に記述しています。)
(b)稲作の長江流域からの南下と日本への伝来
中国の長江文明は今から約4,000年前に崩壊しました。これは,4,200年前に訪れた寒冷化によって,中国北部の畑作牧畜民(漢民族)が南下してきて,稲作漁労民である彼らを滅ぼしたことによります。 (日本においても,この寒冷化の時期に「三内丸山」も崩壊したと考えられます。)
さらに今から約3,000年前にもう一度寒冷期が訪れます。このとき,畑作牧畜民(騎馬民族)のさらに激しい拡大・南下があり,長江流域の稲作漁労民は,雲南省や貴州省へと逃れました。また一部の人々は日本へと船でやって来て,米や文化(稲作文化)を伝えたと考えられています。
なお,滋賀県守山市で発掘された弥生時代中期の下之郷遺跡からは,温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカの両方の稲が確認されており,東南アジアから直接の伝来もあったようです。)
(C)中国からの伝来技術や習慣
日本に昔から伝わる 納豆やなれずしなどの発酵技術,麹を使った酒の醸造法,餅・おこわ・ちまきなどのモチ米由来の食物は,中国南部の雲南省あたりを中心として,東南アジアから日本まで広がる文化圏(⇒照葉樹林文化圏)で見られる風俗習慣です。 また,日本の神話は,中国南部(雲南省)の伝説などに良く似ており,ストーリーが古事記などに取り入れられた可能性の大きいことが指摘されています。( 琵琶湖周辺の部屋(21)<多賀大社と古事記>参照)。
なお当時の米とされる古代米(赤米,黒米等)の外観等について,粉粒体の部屋(6)に記述しています。
(モチ米の由来)
<<参考 1>>,
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(1) |
『世界最古の調理跡 −縄文草創期の土器 福井・北海道で−』 (平成25年4月11日 読売新聞から引用) |
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『北海道や福井県で出土した約15,000〜18,000年前(縄文時代草創期)の土器から,魚などを加熱調理したとたとみられる世界最古の痕跡を発見したと,英ヨーク大や新潟県立歴史博物館などの研究チームが11日付の英科学誌ネイチャーに発表する。研究チームは,国内13か所か所の遺跡から出土した世界最古級の土器試料101個を分析。このうち,北海道帯広市と福井県若狭町で出た土器の焦げ跡から,魚などの水性生物を270℃以上で加熱したときに生ずる残留物を検出した。(以下略)』 |
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(2) |
国内最古級の土偶 (滋賀県埋蔵物文化センターでの展示) (平成22年8月28日) |
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滋賀県埋蔵物文化センター(大津市)で,国内最古級の土偶(実物)が展示されていました。これは2ヶ月前に滋賀県東近江市の永源寺近くの相谷熊原(あいだにくまばら)遺跡で見つかった13,000年前(縄文時代草創期)の土偶のことで,なかなかリアルでした。
(寸法は,高さ3.1cm,幅2.7cm,重さ14.6g と小さいものでした)。
過去にはこれと同時期の物が三重県の粥見居尻遺跡で発見されており,共に国内最古級とされますが,それより身体全体のバランスが良く,丁寧に製作されており,芸術的な優美さがあるとのことです。また底面が平らになっており,自立することができます。(注)
13,000年前というと石器時代から縄文時代になってすぐの時代で,かなり古いと言えそうですが,琵琶湖が最初にこの辺り(三重県の伊賀〜紫香楽)にできた時代は400万年〜500万年前なので,古さは比べものになりません (ーー;) 。
(注)
縄文時代の国宝としては4点あり、そのうち土偶は3点あります。
(a)土偶:「縄文のビーナス」(茅野市棚畑遺跡,約4500年前)
(b)土偶:「中空土偶」(函館市著保内野遺跡,約3200年前)
(c)土偶:「合掌土偶」(八戸市風張1遺跡,約3500年前)
(d)土偶以外:「火焔土器」(十日町市笹山遺跡,約4500年前)
三重県飯南町粥見井尻遺跡出土の土偶は,縄文時代草創期(約1万2千〜1万1千年前)のもので,今回出土した相谷熊原遺跡・土偶は,時期的にこれらより古いものとなります。
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(3) |
三内丸山遺跡 滅亡の原因 平成22年2月2日 読売新聞から引用 |
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『「三内丸山遺跡」(青森市)の縄文集落が約4,200年前に滅んだのは,2度の気温低下が原因だった可能性の高いことが,川幡穂高・東京大学教授(古気候学)らの調査で分かった。
三内丸山遺跡は陸奥湾の南約3kmにある,縄文時代最大規模の集落跡。約5,900年前に成立し,約1,700年後に消滅した。
川幡教授らは,この遺跡から約20km離れた陸奥湾で,水深61mの海底から堆積物を採取。プランクトンがどのような物質を作っていたかを手がかりに,当時の海面温度を推定した。
その結果,海面温度は5,900年前から4,200年前にかけて,約22℃から約24℃まで徐々に上昇したが,そのころ数百年で約22℃まで低下した。気温の低下も同じ約2℃とみられる。
堆積物中の花粉などを調べたところ,温暖期には陸上では栗などが多く育ち,海中には魚が多く生息できたが,寒冷化してその環境が失われたことが分かった。 寒冷化は,この地域に服南西からの暖かな季節風が弱まったことなどが原因らしい。
川幡教授は「数度の温度変化でも,農業などは大きな影響を受ける可能性がある」と話している。』 |
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(4) |
『縄文人もクリ植林? 奈良・観音寺本馬遺跡 25株を確認』平成22年2月27日産経新聞から引用 |
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『奈良県橿原市と御所市にまたがる観音寺本馬遺跡で,縄文時代晩期(約2,800年前)のクリの木の根株25株がまとまって確認され,橿原市教委が26日発表した。クリ林は狩猟採集で生活していたとされる縄文人が,食料確保のために植林していたことを示す重量な発見になるという。
縄文時代の人工林の存在は,三内丸山遺跡(青森県)の花粉のDNA分析などで指摘されているが,実物の根株の分布によって明らかにされるのは極めて異例という。
この遺跡から出土した根株68株を顕微鏡で分析した結果,20種の樹木が確認され,約半数が食用可能な種だった。クリは最多の25株を占め,水路に囲まれた80m四方のエリアに集中していた。クリ林は集落の住居跡から300mと近く,クリだけの林が自然に存在するとは考えにくいことから,市教委は,「クリを中心に利用価値の高い植物を局地的に栽培していたのではないか」と話している。
現場は既に埋め戻されており,発掘成果は27日から5月9日まで,橿原市千塚資料館で紹介される。』 |
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<<参考2>>
(b)プラント・オパール
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「プラント・オパール」とは,植物の葉の細胞に含まれている珪酸体というガラス質の小さな結晶(40〜60μm)のことで,葉っぱに触れて手や足を切ることがあるのはこのためですが,このプラント・オパールは,葉が腐っても土の中でずっと残ることが知られており,これを分析することにより,稲作の起源を調べる試みが続けられています。
この手法を開発したのは宮崎大学名誉教授の萩原宏志氏で,現在までに確認できた稲作の痕跡は全国9カ所の遺跡にあり,約6,000年前から見られるようです。(ただし現時点では,プラント・オパールの発見だけでは,それが野生種か栽培種かを区別できないことから,稲作の確実な証拠とはされていないようです。)
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<<参考 3>>
・・・日本では稲作が6,000年前の縄文時代から行われていた?可能性があります。
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(1) |
『縄文前期に本格稲作?』
(岡山 6000年前の貝塚 稲の化石大量出土)<読売新聞,2005,2,19より引用>
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『縄文時代前期とされる岡山県灘崎町,彦崎貝塚の約6,000前の地層から稲の細胞化石「プラント・オパール」が出土したと,同町教委が18日,発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例めだが,今回は化石が多量で,小麦などのプラント・オパールも見つかり,町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が初めて裏付けられる資料」としている。しかし,縄文晩期に大陸から伝わったとされる我が国稲作の起源の定説を約3,000年以上もさかのぼることになり,新たな起源論争が起こりそうだ。
史跡整備に向けて町教委が2,000年から発掘調査。5つのトレンチから採取した土を別々に分析。地下2.5mの土壌から,土1gあたり稲のプラント・オパール約2,000〜3,000個が見つかった。これは朝寝鼻貝塚の数千倍の量。
主にジャポニカ米系統とみられ,イチョウの葉上の形で,大きさは約30〜60μm。小麦,キビ,ヒエアフリカ原産の「シコクエビ」や「コウリャン」なども少量見つかった。
調査した高橋護・元ノートルダム清心女子大教授(考古学)は稲のプラント・オパールが見つかっただけでも稲の栽培は裏付けられるが,他の植物のものも確認され,栽培リスクを分散していたとみられる。縄文人が農耕に生活を委ねていた証拠」としている。』 |
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(2) |
『米のルーツ解明に一石』
(縄文前期稲化石 「本格的農耕」 傍証なく疑問の声も)<読売新聞,2005,2,19より引用>
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『縄文晩期とされる稲作の起源の定説を3,000年以上もさかのぼる稲の細胞化石「プラント・オバール」が大量に発見された岡山県灘崎町の彦崎貝塚(縄文前期)。 調査グループは「小麦やキビなどと複合栽培したのなら,起源はさらにさかのぼる」と推定する。しかし,水田遺構など,稲作が定着していたことを示す傍証はなく,完全な「物証ではないとする意見も根強い。起源は縄文前期か,それとも晩期か−−。」」
わが国の稲作の歴史は,佐賀県唐津市の菜畑遺跡(2,600年前)で確認された水田遺構が最古と見られる。大陸では揚子江流域で約7000年〜1万年前に始まったとされ,中国か朝鮮半島などから伝播したと考えられている。今回の成果は,起源をぐっと大陸よりに近づけることになる。
高橋護・元ノートルダム清心女子大教授ら研究グループは,プラント・オパールが大量だったことや他の食物も有ったことを「縄文前期の本格的農耕生活」を裏付ける根拠とし,水田が無いことについては「大半が焼畑農業だったのでは無いか」と推測する。
しかし,松田真一・奈良県立橿原考古学研究所調査研究部長は,「稲が約6,000年前に有ったのは間違いないが,縄文期,稲が常食されていたという痕跡はない。なぜ,稲が主食にならなかったのか,議論しなければ」とする。』 |
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<<参考4>>『稲作の起源 東南アジア説』
(農業生物資源研 選抜の歴史 遺伝子で追う)<読売新聞,2008,7,27より引用> |
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『稲作の起源は東南アジアとする新説を,独立行政法人「農業生物資源研究所」(茨城県つくば市)のチームが発表した。人類がイネを改良してきた歴史を遺伝子で探り,最も原始的なイネを東南アジアに見つけだした。
同研究所の井沢毅主任研究員らは,ジャポニカ米「日本晴」の遺伝子を分析。2006年,稲穂が実っても米粒が落ちない性質を生む変異を見つけた。今月には米粒が幅広になる遺伝子変異を発表した。モチモチした食感を生む変異も1998年に複数のチームが報告している。井沢さんらは今回,これら3つの変異がアジア各地で栽培されてきたジャポニカ107品種で起きているかどうかを調べ,起源に迫った。その結果,3つとも変異がない最も原始的なタイプがインドネシアなどで見つかった。日本では,3遺伝子のうち2つかすべてが変異していた。
ただ,こうした成果を支える遺跡は発見されていない。約1万年前の中国 ・長江流域の遺跡から大量の籾(もみ)が見つかり,稲作の起源として有力視されている。90年代初め,ジャポニカ長江起源説を提唱した総合地球環境学研究所(京都市)の佐藤洋一郎教授は「東南アジアでは中国よりも古い稲作の遺跡はなく,考古学との整合性が今後の課題になる」と話している。』
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<参考文献>
1. 「環境考古学のすすめ」 安田喜憲著,丸善(株)刊, 2001,10,20発行
2. 「長江文明の探求」 監修:稲盛和夫,著者:梅原猛,安田喜憲,新思索社刊, 2004,8,30発行
3. 「日本人はるかな旅 (3)海が育てた森の王国」 NHKスペシャル「日本人」プロジェクト編,
日本放送出版協会刊 2001,10,25発行
. 「日本人はるかな旅 (4)イネ,知られざる1万年の旅」 NHKスペシャル「日本人」プロジェクト編,
日本放送出版協会刊 2001,12,20発行
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