直線上に配置

多賀大社
万灯祭
古事記
<琵琶湖の周辺(21)>(平成18年7月29,8月5日撮影) <音声あり>

多賀大社は,滋賀県東部(犬上郡多賀町多賀)にあり,伊邪那岐命(いざなぎのみこと)伊邪那美命(いざなみのみこと)を祀っている神社です。

古事記によると,この2神は高天原(たかまがはら)で夫婦として,大八洲国 (おおやしま国;日本)と八百万(やおよろず)の神々および天照大御神(あまてらすおおみのかみ;天皇家の祖先須佐之男命(すさのおのみこと)をお産みになったとされています。

多賀大社は,古来より朝廷のみならず武家からも,長寿と縁結びの神様として信仰の対象となってきました。全国に分祀されており,その数は233社(境内社まで含めると299社)にものぼるといわれています。

例年4月22日は大祭であり,8月3日〜5日には万灯祭
が開催されます。万灯祭では,境内に約12,000灯の提灯に明かりが灯され,湖国の夏の風物詩として有名です。

平成19年に20億円を投じ,「平成の大造営」がなされました。


杉坂峠の御神木と調宮神社 :高天原から降臨されたのが杉坂峠とされ,ふもとには命が休まれたという調宮(ととのみや)神社があります。
<御神木の案内板と御旅所の標識>
栗栖(くるす)地区を流れる芹川にかかる橋。これを渡ると右側に調宮神社があります。
<調宮(ととのみや)神社の鳥居と本殿>
栗栖地区にあり,多賀大社の春秋の大祭でのお旅所になっています。 

<栗栖から杉坂峠への登り道>
うっそうとした林の中は,誰も通らず,やや寂しい感じでした。途中,イノシシの親子がお出迎え。徒歩で約1時間,やっと峠に到着しました。
<御神木>
この木は,滋賀県指定の天然記念物となっていて,県下最大の大木です(幹周12m,樹高37m)。この他に3本の大きな杉の木が並んでいました。
<御神木のいわれ>
この杉坂峠が伊邪那岐神の(高天原からの)降臨の地とされ,土地の老人が栗の飯を献上したところ,ご機嫌麗しくお召し上がりになり,その時使われた杉のお箸を地面に刺したところ,芽吹き大木になったということです。

多賀大社と万灯祭:黄泉の国(よみのくに;死後の世界)で,私達の祖先の霊を守っている伊邪那美の神に感謝の献灯を捧げる祭りで,8月3日から5日までの3日間,境内にある12,000もの提灯に一斉に点灯されます。
(この火は,御神木のある杉坂峠で採られ,調宮神社を経由して運ばれたものです。)

<大鳥居>
正面の大鳥居で,石造りの見事なものです。(正面に<そり橋>が見えます。)
手前の道路を挟んだ大鳥居の対面には,糸切餅などを売る売店が並んでいます。(右下写真参照)
<そり橋>
天正16年,秀吉は米1万石を奉納し,政所の病気の平癒を祈りました。この橋はその奉納により築造されたため,俗に太閤橋ともいわれ,大祭では御輿が渡られます。
<御神門>
そり橋の後ろにある御神門です。
左側にある立て看板には,平成の大造営について書かれています。それによると,総事業費20億円とか。
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<以下の画像はクリックすると拡大します> 
<御神門から拝殿を望む>
御神門から正面の拝殿を見たところ。
<拝殿>
御神門の真正面にある拝殿。拝殿の奥に神楽殿,幣殿があり,その奥に本殿があります。
<神楽殿>
拝殿奥の神楽殿でお祓いを受けている人達がいました。
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<能舞殿>
ここで能や神楽などが演じられ奉納されます。
<さざれ石>
古今集に「君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌と成りて 苔のむすまで」と歌われ,後に日本国家にもなったさざれ石。学名は石灰質角礫(れき)岩で,長い年月の間に溶解した石灰石が,多くの小石を集結して次第に大きくなったものです。
<寿命石>
治承4年(1180)焼き討ちされた東大寺の再建を命じられた僧・重源は,多賀大社に参拝して延命長寿を祈願し,無事に再建を為しとげたそうです。その神示を受けたのがこの寿命石とされています。
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 <以下の画像はクリックすると拡大します>
午後7時に点灯されました。左上に月が見えます。中央の文字は「神光」です。
<近江猿楽の奉納>1 <近江猿楽の奉納>2 <近江猿楽の奉納>3
--------------- (動画) ---------------
その他の動画はこちらです。
 
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  大釜     多賀名物 糸切餅  
         
  寛永10年(1,633)と元禄12年(1,699)に江戸幕府から奉納された直径1mの大釜です。
共に,数十万両もの浄財を投入し,数年を要した造営の竣工を記念して奉納されたものです。
 
  元寇の役での勝利を感謝し奉納したことにちなんだ糸切餅。赤青3本の線は敵の旗印を表しています。これを弓の糸で切るのは,刃物を使わず悪霊を断ち切る(=平和と長寿を祈念する)ことを意味しているそうです。   


古事記 : 古事記は,天武天皇の命により,天皇の測近としての稗田阿礼(ひえだのあれ,女性?)が暗記していた帝紀(天皇家の歴史),旧辞(豪族たちの神話や伝承)を,女帝・元明天皇太安万侶(おおのやすまろ)に筆録を命じ,和銅5年(712年)に完成した日本最古の歴史書です。



(1) 伊邪那岐命いざなぎのみこと)と伊邪那美命いざなみのみことが登場する国生み神話
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 ここあまつ神,諸々もろもろみことちて伊邪那岐命伊邪那美命,二柱の神に,「のただよへる国を
修理つく 固成かためよ」とりて,あめ沼矛ぬぼこたまひてこと さしたまひき。
  れ,二柱の神,あめの浮橋に立たして,その沼矛ぬぼこを指し下ろして たまへば,塩こをろこをろに
ならして引き上げ たまふ時,其の矛のさき より したたり落つる塩, かさなり積もりて島と成りき。
  れ, しま なり。
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 その島にあまくだりまして, あめ御柱みはしら を見立て, 八尋殿やひろどのを見立て たまひき。
 ここにその いも 伊邪那美命に問ひ たまはく,「 が身は如何にか成れる。」と問い たまへば,
が身は,成り成りて,成り合わざる ところ一処あり。」と答え たまひき。
  ここに 伊邪那岐命 たまはく,「我が身は成り成りて成り余れる ところ一処あり。かれ ,この我が身の
成り余れる処をもちて,が身の成り合わざる処にさし ふさぎて,国土くにを生み成さんと 以為おもふ。
「生むこと奈何いかに」。と たま へば, 伊邪那美命 しか けむ。」と答え たま ひき。

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(注1)
  ここに 伊邪那岐命 たま ひしく,「然からば われ いまし とこの あめ 御柱みはしら を行き めぐ り逢ひて,みとのまぐはひ む。」 たま ひき。
かく
ちぎ りて,すなわち「 いまし は右より めぐ り逢へ,我は左より めぐ り逢はむ。と たま ひ,
ちぎ へて めぐ る時,伊邪那美命 ,先に「あなにやし,えをとこを。」と言ひ,後に 伊邪那岐命 ,「あなにやし,えをとめを。」と言ひ, おのおの 言い へし後,その いも に告げ たま ひしく,「 女人おみな 先に言へるは良からず。」と告げ たま ひき。
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しか れどもくみどに こして生める子は, 水蛭子ひるこ (注2)。この子は 葦船あしふね に入れて流し てき。つぎに淡島あわしま を生みき。 また ,子の かず には入れざりき。
ここ に二柱の神, はか りて ひけらく,「今 が生める子良からず。 なお あま つ神の御所みもと もう すべし」と言ひて, すなわ ち共に 参上まい りて, あま つ神の みこと ひき。
ここ あま つ神の みこと ちて,ふとまにに 占相うらな へて, たま ひしく,「 おみな 先に言へるに りて良からず。 またかえ り降りて改めとな へよ」と たまひき。
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この後,2神は儀式をやり直して,無事に淡路島,四国,隠岐島,九州,壱岐,対馬,佐渡島,大倭豊秋津島
(おおやまと とよあきつしま;大和を中心とした畿内)⇒全部合わせて<おおやしま>を産んだことが記されています。

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(2) 夫婦神の決別(伊邪那美命は黄泉(よみ)の国へ)
 伊邪那岐命伊邪那美命は,日本列島を構成する島々(島々の守り神)を生みましたが,その時点での日本列島は,土がむき出しの荒れ地に過ぎませんでした。島の周囲には広大などろどろの湿地帯が広がり,海との境は不明確でした。

そこで,
伊邪那岐命伊邪那美命は,海(海の神),川(川の神),山,木,草を作りました。これによって,山や森林や川のある豊かな緑に恵まれた大地と,それを取り巻く美しい海岸線とからなる風景が作られました。

 
このあと夫婦の神は,人間生活に必要な風や穀物や火の神を生みましたが,伊邪那美命は,この火の神カグツチに焼かれて亡くなってしまいました。伊邪那岐命は怒りのあまり,カグツチを斬り殺しましたが,このとき,カグツチの身体や血から多くの神が生まれました。

 
悲しんだ伊邪那岐命は,妻を取り戻そうとして死者の住む黄泉の国(よみのくに)に行きますが,(見るなと言う忠告にもかかわらず)ウジのたかった妻の死体を垣間見てしまい,怒りをかって地上に追い返されてしまいます。このことによって,生者の世界と死者の世界との対立が始まりました。そして,このとき,人間のこの世における生命が限りあるものとされたことによって,死者の数に見合った新たな生命が誕生してくるようになったとされています。

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(3) 三貴子誕生のくだり
 
ここ ちて おおかみ たま ひしく,「は,いなしこめしこめき きたなき国に至りて りけり。
 故かれ 御身みみ
みそぎ む」と たまひて, 筑紫つくし日向ひむか たちばな 小門おど はら に到りして,みそぎはら たまひき。 <中略>
 
ここに左の を洗ひたまふ時に成れる神の名は, あまてらす おおかみ 。次に右の を洗ひたまふ時に成れる神の名は, つきよみ みこと。 次に はな を洗ひたま ふ時に成れる神の名は,たけはや おの みこと

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(4)五穀の起源
 「又 をし もの おお めの かみ ひき。ここ おお はな くち また しり より,くさ ぐさ ためつ もの を取り いだ して, くさ ぐさ 作り そな へて たてまつ る時に, おの みこと しわざを立ち伺いて,
して たて まつ ると おも ひて, すなわち おお めの かみ を殺しき。
かれ ,殺さえし神の身に れる物は, かしら かいこ り,二つ目にいなたね り,二つの耳にあわ り,鼻に小豆 り, ほと り,尻に りき。
かれここ かみ ひのおやのみこと れを取らしめて,と成しき。


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(5)伊邪那岐命の落ち着き先古事記と,もう一つの歴史書「日本書紀」では異なっています。
 (a)古事記「伊 ぎの おお かみ は, 淡海おうみ の多賀に いま すなり。」(⇒近江の多賀大社
 (b)日本書紀 かくれ みや を淡路の くに つく りて, 静寂しずか に長く隠れましき。」(⇒淡路島の伊弉諾イザナギ神社)


 (注1)     
古事記の神話と中国の伝説の関係について

 上記の「国生み神話」をはじめとして,日本の古代神話は,中国南部に伝わる伝説,特に中国雲南省ミャオ族系少数民族の伝説によく似ていると指摘されています。
 
 
ミャオとは,元々,長江文明を担った人々の末裔(子孫)です。
 
最近の考古学研究の成果として,長江流域には,黄河文明より古い長江文明のあったことが指摘されています。その文明を担っていた人々(=稲作漁労民)は,北方の漢民族(=畑作牧畜民)の勢いが拡大するにつれて南方(雲南省や貴州省)に逃げました。また,一部の人々はボートピープルとなって,日本にやってきたと考えられています。
 同時に,それらの人々は,日本に
稲作文化中国南部の伝説をも伝えたとされています。

 
中国南部では,洪水で兄弟が生き残り,結婚して人類と国土を誕生させる,いわゆる「洪水神話」が多数有るようです
 
(注;洪水神話そのものは世界的に有り,「ノアの大洪水(方舟)」などもその一つ。)

 
ミャオに伝えられている伝説では,彼らは大昔の大洪水にただ二人生き残った兄妹(あるいは姉弟)の「フッキ(男神)」と「ジョカ(女神)」であり,やがて二人が夫婦となって現在の人類の始祖となった,とされています。

(以下の内容は,文章表現が古事記とよく似ています。特に,木の周りをまわりながら相手を捕まえるところ,子供に障害?があるところ,天の髪に教えを請うているところ等々。。。)

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大昔,天から雷鳴と共に雨がふり注いだ。雷のしわざである。一人の勇敢な男が鉄の檻を用意して雨のなかに飛び出し,雷を捕らえた。男が市へ出かけた後,雷は留守番の子供たち兄妹にたのんで水を注いでもらった。そのとたん,雷は檻の外へ飛び出し,天に飛びさった。その時,雷は兄妹に礼として歯を一本渡し,土中に埋めるように言い残した。

 二人の子供が言われたとおりにすると,大きな瓢箪(ひょうたん)が生えた。 雷のいかりで
大洪水になり,地上の生物はすべて死に絶えたが,瓢箪のなかに隠れた二人は生き残ることができた

 
ある時,兄が妹に結婚しようと申し出たが,妹はことわった。兄がなおもたのむと,妹は自分を追いかけて捕まえたら結婚すると言った。兄は大きな木のまわりをめぐりながら妹を追いかけた。妹はなかなか捕まえられなかったが,兄は急に向きを変えて妹を捕まえた
 結婚して間もなく生まれた子は,手足のない肉のかたまりであった。
人は肉塊を細かにきざみ,天の神にたずねるために天への梯子を登り始めた。しかし,大風が吹いて肉の包みが解け,地に落ちて人間が生まれた。こうして人類は誕生した
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(「中国の神話」(君島久子著,筑摩書房刊,1983年)より引用)
  これらの神話は,雲南地方などの中国南方や東アジアから伝えられた農耕や生活文化(照葉樹林文化)と共に,日本に伝えられたものと考えられています。
                                         

 (注2)  
水蛭子(ひるこ)のその後戎神(えべっさん)になった?
水蛭子ひるこ)は意に添わない子であったため,あしの舟に載せられ海に流されました。古事記では,その後の運命についての記述はありません。しかし水蛭子(ひるこ)は後に「蛭子(えびす),恵比寿,戎,(=えべっさん)」として戻ってきて,西宮,今宮,十三などの戎神社に祀られるようになりました。

 最初は「海の神」として信仰されていましたが,その後は「商売の神」として大衆的な信仰を集めるようになりました。
・・・・・・ちなみに,1月9日は宵戎,10日は本戎,11日は残り戎と呼ばれています。
 

なぜこの時代に古事記が書かれたのかについての仮説:
 
  
天智天皇(=大化の改新を行った中大兄皇子)や古事記編集を提案した天武天皇(=大海人皇子,天智天皇の弟)の時代は,唐や新羅と戦った白村江の戦い(663年)に敗れ,国防のため,九州に防人を配したり,西日本の海岸各地に防御壁を築くなど,中国や朝鮮からの驚異を感じていました。しかも,当時は土地も人民も天皇のものではなく,力のある豪族が私有するものでした。

 そんな時代背景において,天皇を中心とする新たな国家体制を構築するべく,天智天皇の大化の改新を契機に始まった唐の律令体制の導入は,天武天皇や元明天皇の時代に本格的となり,和銅3年(710年)に平城京の造営が開始されました。この直後(和銅5年(712年))に古事記は完成しています。

 一方で,天武天皇は,古事記という歴史書の中で,長江文明をもって日本に渡来した人々の伝説を参考にして,日本国の成り立ちから初代の神武天皇誕生の経緯(天皇を中心とした国家統一のいきさつ)を述べて天皇の正統性を主張するとともに,それを通して天皇の中央集権を強固にしようとしたようです。


   <参考> 
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古事記は,天武天皇が編集を発案したものであった。天武天皇は,これまでの天皇家の系譜を期した「帝記」や「本辞」が多くの虚偽を加え,誤った事実を伝えているとして,新たな天皇家系譜の物語を作成することを命じた。従って,その内容は唐を意識したものにならざるを得なかった。古事記は日本神話の故郷を南九州に設定し,神武天皇に始まる南朝の系譜を期している。それはなぜかということが本章の課題であった。その理由が今,はっきりと私には見えてきた。

 
天武朝になって,アマテラスの伊勢神宮の地位がにわかに上昇する。天武天皇が唐帝国の覇権主義に対抗し,倭国を独立した国として維持する為に注目したハードは,北朝の畑作・牧畜民の文明システムの律令体制であったが,ソフトは南朝の太陽信仰だった。天武天皇は長江文明以来の太陽信仰を体系づけ,「日の御子」としての天皇を中心とする「日本国の心の形」を作り上げた。天武天皇は太陽王であった。日本列島における「太陽の文明」は,この天武天皇によって名実ともに完成したといえるだろう。天武天皇は長江文明を継承し,その長江文明の世界観を,天皇を中心とする日本国の建国の柱に据えたのである。長江文明は日本文明となって甦ったのである。

 
古事記を誦習した稗田阿礼はいうまでもなく,天武天皇も,太陽信仰のルーツが長江文明にあることは,当然知っていたであろう。「日の御子」の太陽王としての正当性を示すためには,天皇の高祖は,長江に最も近接した南九州に天降る必要があったのである。ニニギノミコトは太陽信仰のルーツである長江の下流域に最も近い笠沙の地に降臨する必要があったのである。それは長江文明最後の反乱だった。
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(「龍の文明・太陽の文明」(安田喜憲著,PHP研究所,2001発行)より引用)
<補足>
(a) 日本神話の故郷は,南九州といわれます。これは宮崎県,鹿児島県が活動の舞台として多く出てくることによりますが,具体的には,(a)伊邪那岐命が黄泉の国から逃れて来て禊祓いをしたことや,(b)天照大御神など三貴子が誕生した所であること,(c)その子孫とされるニニギノミコトが高天原から降臨したのが高千穂の峰であること,また(d)ニニギノミコトの孫が初代天皇の神武であり,この地から東征が始まったこと等々からと思われます。

⇒「高千穂を訪ねて」こちらです。

(b) 長江下流域からやってきた新しい文明を持った人々が日本に漂流した所は,南九州出雲能登半島などであったと考えられています。これらの地域(特に南九州や出雲)が,古事記など日本神話の舞台となっています。
そして,新しくやってきた人々がもたらしたものが
稲作文明でした。その人達の世界観は,太陽を神とし,鳥や蛇を神として崇拝する世界観で,すでに縄文人たちが持っていた世界観と共通するところが多く,比較的容易に受け入れられたのではないかと考えられています。


<参考文献>
1 「古事記 注釈」(第1巻)(第2巻),西郷信綱著, (株)筑摩書房,2005,4,10/6.10発行
2 「環境考古学のすすめ」 安田喜憲著,丸善(株)刊,2001,10,20発行
3 「長江文明の探求」 梅原猛,安田喜憲著(株)新思索社刊,2004,8,30発行
4 「龍の文明・太陽の文明」安田喜憲著,PHP研究所刊,2001.9.28発行
5 「日本王権神話と中国南方神話」 諏訪春雄著,(株)角川書店刊,2005,7,5発行
6
「中国の神話」,君島久子著,筑摩書房刊,1983年発行
7 「日本の神様がよくわかる本」,戸部民夫著,PHP研究所刊,2004,1,21発行


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