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米原市(旧山東町)では,この平成19年6月,蛍保護条例が可決されました。
この地域ではゲンジボタル,ヘイケボタル,ヒメボタル,クロマドボタルが生息しています。
そこで,市内の全域を蛍保護区に,天の川などを特別保護区にすると共に,蛍や餌のカワニナの捕獲を禁止し,また蛍の成長期には草刈りや除草剤の散布を禁止し,罰則規定を設けるなど保護に力を入れています。 |
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<<ゲンジボタルの発生する川(姉川の支流)と飛翔の様子>> |
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姉川古戦場跡について : |
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蛍の観察位置の近くに,姉川古戦場跡があります。
姉川の戦いとは,元亀元年(1,570年)6月28日に,姉川を挟んで行われた浅井(あざい)・朝倉軍と織田・徳川軍との戦いのことです。
これより先,織田信長は,実妹(お市)を浅井長政に嫁がせ,同盟を結んでおり,越前の朝倉義景を攻めようとしましたが,浅井長政が反旗を翻したのです。
浅井・朝倉軍は18,000人,織田・徳川軍は28,000人でした。当初は浅井・朝倉軍が優勢であったものの,徳川軍の頑張りによって形勢は逆転し,結果的に浅井・朝倉軍は後退し,小谷城に籠城することとなりました。
この戦いでは,当時浅井長政26歳,織田信長39歳でしたが浅井長政は3年後滅亡し,織田信長にとっては天下統一のきっかけとなりました。
戦いは午前5時頃始まり,午後2時頃には終わったとされていますが,この戦いでの戦死者は,浅井・朝倉軍は1,700余人,織田・徳川軍は800余人,負傷者はその3倍にもおよび,姉川が血で染まったと伝えられています。
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<北軍>
1,8000人
浅井長政軍
8,000人
朝倉景健軍
10,000人
←
姉川 |
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対峙 |
<南軍>
28,000人
織田信長軍
23,000人
徳川家康軍
5,000人
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戦死者の碑が橋のたもとに
建てられています。 |
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現在の姉川,静かに流れていますが,当時は,このあたりが戦場になり血で染まったとか。
手前は琵琶湖側,後方は伊吹山方面。 |
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湖東〜湖北地方には,この姉川古戦場をはじめ,賤ヶ岳の戦いや関ヶ原の戦いなど戦国時代の古戦場が多くあります。近江の国は戦国時代に1,000もの城が造られ,戦いの場となりました。
ホタルは戦死者の魂?が飛び交っているようにも見えます。 |
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